夜回り先生 水谷 修
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Osamu Mizutani Official BLOG

読書三昧 ⑦

「悪魔の辞典」 ビアス著 西川正身編訳 岩波文庫

 

「信仰とは、類例のない物事について、知りもしないくせに語る者の言うことを、証拠がないにもかかわらず正しいと信じること」、「政治とは、主義主張の争いという美名のかげに正体を隠している利害関係の衝突。私の利益のために国事を運営すること」、「花嫁とは、幸福になり得るすばらしい前途の見込みを後ろにまわしてしまったおんな」

子どもたち、どうですか。これを読んで、何を感じましたか。

何をばかなことを言っているのかと、怒りを感じた人は、常識人。自分の一生を、失敗に終わらせないためにも、この本を、まじめにていねいに読むべきです。そして、何もかもあるがままに、言われたままに信じるのではなく、ものごとを健全に疑うこころを身につけるべきです。

いいことを言っている、ざまあみろと、にやっと笑った人は、問題があります。この本を、何度も読み直し、ことばの文章の裏にあるビアスの想いをきちんと理解するべきです。

 

アンブローズ・ビアスは、多くの雑誌や新聞に寄稿した、有名なアメリカのジャーナリストでした。彼が活動した、南北戦争後の1870年代から1900年にかけては、アメリカ史上、最も恥ずべき時代と今も語られるほど、政治や経済は、腐敗し、宗教界も、男女の関係も、堕落した時代です。子どもたち、何か今の私たちの時代と重なりませんか。そのような時代に、彼は、ジャーナリストとして、一本のペンだけを武器として、戦いを挑みました。社会を変えるために。風刺(嫌みといえばわかりやすいかもしれません)という方法で。

 

子どもたち、なぜこの地球で人類が、このように支配者として力を持つことができたのか、わかりますか。それは、なぜと問うあたまと、本当なのかと疑うこころを持っていたからです。なぜ太陽は昇るのか、この問に、かつて神を使い神話で説明した時代があります。そして、それを疑い、現在の科学が生まれてきました。言いかえれば、過去や現在を、問い疑うことから、明日が作られてきました。

 

子どもたち、君たちは、今の社会や政治、経済のありかたを、ただ受け入れていませんか。これでいい、あるいはしかたがないと。これでは、新しい素晴らしい明日は、生まれません。子どもたち、お願いです。これではだめだ、変えなくてはならない、そんなこころを、君たちの中に芽生えさせてくれませんか。この本の中には、たくさんのヒントがあります。

読書三昧 ⑥

「古事記」現代語訳 福永武彦訳 河出文庫

 

子どもたち、私たち、ヒトは、いつ動物からヒトとなったのでしょう。君たちは、社会科の授業で、こう習ったはずです。道具の使用。火の使用。直立歩行、そしてことばの使用、これが、私たちヒトと動物を分けるものだと。私も、これは否定しません。でも、これでは、説明不足だと考えています。

私は、神話の誕生をもって、ヒトの、そして、それぞれの地域に根ざして生きる民族の発祥となったと考えるべきだと思います。神話の中には、それが世界のどの地域のどの民族のものであっても、世界やヒトの成り立ちについての説明があります。生や死についての説明があります。そして、その地の成り立ちや歴史、文化についての説明があります。

子どもたち、君たちの中で、たぶん「旧約聖書」や「ギリシア神話」などの神話を一度でも読んだことのある人は、「水谷先生、あんなの嘘だよ。嵐は、神様が怒っているから、違うよ。単なる地球上の気圧の変化の問題だよ。神様が、私たちの日本という島国を矛で海をかき回して作った。そんな大きい矛はどこにあるの」、そう言うかもしれません。よくわかります。無理もありません。でも、忘れないでください。そういう君たちは、神話が生まれた数千年後の今を、人類が積み重ねてきた、一番新しい知識の上で生きているのです。

かつて、古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、こういいました。「神話の中にも、学問はある。なぜなら、その中にはなぜという問があるから」私も、そう思います。なぜこの国はできたのか。なぜ、嵐が起きるのか。人は死ぬとどうなるのか。人は、どう生きるべきなのか。私たちにとって、考えなくてはいけない根源的な問を、彼らなりの限られた知識の中で必死に考え、そして説明しています。神という絶対的な存在を使って。私は、ここで、ヒトが、ヒトとして始まったと考えています。君たちは、どう思いますか。

「古事記」、これは、私たちの日本の神話です。この国に生きた人たちが、考えつぎ、語り継いだ、君たちの住むこの国の、またこの国に生きた人たちの、民族としての自己同一性、そして文化の一貫性の根源にある神話です。現代を生きる君たちから見たら、嘘ばっかりの本かもしれません。でも、君たちが今住む地域や、修学旅行や家族旅行で行く地域のいろいろな歴史的秘密やあっと驚くような知識が、ちりばめられています。この本を読むことを通して、きっと君たちのこの国に対する見方が、広がります。

 

 

読書三昧 ⑤

「出家とその弟子」   倉田 百三

 

子どもたち、私は、君たち一人一人に聞きたいことがあります。「君たちは、悪人ですか」子どもたち、どう答えますか。私は、こうしか答えられません。「はい、私は、悪人です。今まで、多くの命を奪い喰らい生きてきました。多くの人を、憎み、のろい生きてきました。また、多くの人を哀しませ、傷つけ生きてきましたから」

私は、幼いころから、祖父母に、「善人になれ」と強く教えられてきました。ともかく、善人になりたい。そのためにも、人のためになることをしたい。小学校のころから、高齢者の荷物を持ってあげたり、虐められている仲間がいたら、虐めている連中に向かっていったり、バスや列車では、席に座らず立ち続けたり、ともかく他人のことを考え、自分を痛めつけて生きていました。そんな私のこころが破裂してしまったのは、中学一年生の時でした。いくら、他人のために、良い行いをしていても、バスで高齢者に席をゆずらない高校生を憎み、虐めている連中に怒り、私をあざ笑う人を馬鹿にしている、自分のこころの中の悪、それに気づいたからです。そして、リストカットが始まりました。私のこころに、人を憎む、ばかにする、妬む、汚れた想いが浮かぶたびに、自らを切り刻み罰しました。でも、何の解決にも成りません。私は、自分のしているすべてのことが、偽善に思えてきました。

そんな私に、一筋の光明をもたらしてくれた、それが、この「出家とその弟子」です。親鸞聖人とその弟子たちとの関わりを、戯曲という形式、すなわち会話形式で書き込んでいます。この本の中で、親鸞聖人は言います。自分は、悪人だと。そして、すべての人や、彼らの行為を責めません。いや、自分には、人を責める資格もないと、すべてを受け入れます。自分を、杖で打ち、雪の中に放り出した侍も、女人と恋に落ちた若い弟子も、放蕩を繰り返す息子も。

子どもたち、私は、学びました。私たちが、生きていること自体が悪です。なぜなら、多くの命を奪い糧として生きているから。私たちは、悪人です。なぜなら、生きていく限り、必ず、だれかに哀しい思いをさせ、まただれかを傷つけてしまうから。これは、私たちの宿命です。逃げることはできません。だからこそ、私たちは、人に優しさを配り、だれかを幸せにするために生きるのです。子どもたち、私は、日々を、償い続けて生きています。幸せです。

読書三昧 ④

「無知の涙」  永山 則夫

 

子どもたち、青春時代というのは、激動の時代です。明日への希望と不安にさいなまれ、苦しみもだえる。私もそうでした。大きな希望、でも自分の限られた能力、恵まれない環境。あるものは、勝ち残り、輝かしい明日を作っていくでしょう。またあるものは、疲れ果て、ただ日々を生きることを繰り返していくでしょう。あるものは、ふてくされ、そして次の日々を恨みとねたみで汚しながら生きていくでしょう。また、あるものは、夢に破れこころを閉ざし、自分の殻に閉じこもり、明日に今日と同じ今を積み重ねて生きていくでしょう。哀しいけれど、あるものは、自らいのちを絶っていきます。何が、正しい生き方なのかは、私にはわかりません。子どもたち、君の人生は、君だけのものであり、それをどう生きるのかは、君自身が自己責任で決めなくてはならないのです。

子どもたち、私も青春時代、もだえ苦しみました。この国を社会主義の国にすることで、貧しさに苦しむ人をなくそうと、私は、中学時代から、学生運動の中に身を置きました。でも、それは、崩壊。何人もの仲間が、自殺を。そんな中、私は、捨て鉢になっていました。もうどうでもいい。今日だけが楽しければ。夜の世界に入りました。そんな私に、生きることの意味と生き方を教えてくれたのが、この本でした。

永山則夫という一人の青年がいました。彼は、五歳で親に捨てられ、北の果て網走で、極貧の生活を送ります。中学時代は、家出を繰り返し、ほとんど知識を学ぶことはありませんでした。中学卒業後は、東京に集団就職。文字を書くことさえ困難な彼は、いろいろな仕事を転々と。そして、19歳の時、拳銃で、顔見知りでもない、何の関係も恨みもない人を四人射殺します。そして、逮捕、死刑の判決が下されます。明日のない、ただ死刑を待つ獄中で、彼は、字を学び、ひたすら本を読み、そして思索し続けます。その彼の思索のノートが、この本です。いつ下されるかわからない死刑の執行、たった一人で毎日を過ごす独房。そんな限界状況の中で、彼は、学び、叫びます。もし、自分が無知でなかったならと。でも、過去を恨み、ぐれることなく、ただ、学び、二十九年間叫び続けます。

子どもたち、彼は、まさに一生を青春として生きた人です。苦しいから、つらいから、悩んでいるからこそ、ただ、ひたすら学び続けることの大切さを、自ら私たちに伝えてくれました。私もまた、彼の後を追い、一生を青春として生きています。学び続けて。

1997年8月1日、永山則夫は、処刑されました。享年四十八歳でした。

読書三昧 ③

「イワンのばか」 トルストイ

 

子どもたち、幸せって何でしょう。君たちにとっての幸せは何ですか。私は、子どものころ、いつも自分にとっての幸せは何なのか、悩んでいました。それは、貧しかったせいも、あると思います。父を三才で失い、愛する母とも、一緒に生活することができず、山形県の山間の小さな村に住む祖父母とともに生活していました。祖父母は私を愛してくれました。でも、お腹いっぱい食べることもままならない貧しい生活でした。少なくても幸せではありませんでした。母と一緒に暮らしたかったし、お腹いっぱい白いご飯を食べたかった。みんなが着ているようなきれいな洋服を着たかったし、何より、母を幸せにしたかった。私は、そんな貧しさの中で、小学校の時から、必死で勉強しました。勉強には、成績には、貧富の差がありません。お金もかかりません。一杯勉強して、偉くなるんだ、お金持ちになるんだ。そして、お母さんたちを幸せに。幼い私の精一杯の愛でした。寝る時間を惜しみ、勉強をし、図書館の本を読みあさりました。

そんな私が、壁にぶつかったのは、中学生の時でした。子どもたち、君たちは知らないと思いますが、七十年安保闘争という大きな学生運動のころでした。世の中には、貧しさに苦しみ、その日の糧さえきちんと得ることのできない人々がたくさん存在する。その一方で、毎日のように贅沢を尽くす人たちも存在する。彼らの贅沢は、貧しい人たちの涙の上に成り立っているのに。私は、富んでいる人、そして、それを支える権力を持った人を憎みました。私のこころは切れました。人生の目標を、見失いました。幼いころから、富や権力をいつか手にしようと、ただひたすら勉強してきたことが空しくなりました。

子どもたち、そんな私が、図書館でふと手にした本が、このトルストイの「イワンのばか」でした。イワンは、限りなくばかです。自分が汗を流して手に入れたものを、欲望のかたまりの二人の兄が求めれば、それをすべて与えます。何の報いも求めず。あらゆる権力や富を手に入れても、それを無造作に人々に配り、ただ、自ら汗を流し働き、人々のためにつくし、日々を生きていく。多分、今を生きる子どもたちの多くは、なんてばかな奴と見下すでしょう。でも、私は、イワンの生き方に、本当の幸せを学びました。欲望を捨て、日々をただ人のために生きる。ただ、一日一日大地を踏みしめ、汗を流し、働いて。

子どもたち、幸せとは、何でしょう。すでに君たちのこころの中に答えはあります。