夜回り先生 水谷 修
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Osamu Mizutani Official BLOG

ドラッグの相談が増えています

この一ヶ月、ドラッグ、特に大麻についての相談が増えています。しかも、相談してくるのは、ほとんどが女子高生です。地域的には、福岡、大阪、京都、愛知、静岡、神奈川、東京、埼玉、千葉、北海道が中心ですが、特に、静岡、京都からの相談がずば抜けて多く、京都の場合は、ほとんどが京都市内の高校生からの相談ですが、静岡の場合は、沼津、三島、富士、静岡、掛川、菊川、浜松と、広い地域の高校生からの相談です。どうも、京都市内、静岡県内に、高校生たちを密売の対象としたネットワークが、すでに形成されているようです。

 

大麻は、現在1グラム1000円から2000円程度で、5グラム程度を一つのパッケージとして密売されています。1グラムあれば、1本巻くことができますし、その1本を数人で回し吸いすることもできます。他のドラッグと比べれば、安価で、タバコの経験さえあれば、抵抗なく使用することができます。

 

また、若者たちのドラッグ乱用は、感染症です。あるグループの一人が乱用を始めれば、すぐに乱用がそのグループ全員へと拡がっていきます。みんなで乱用すれば、密告されることもなく、罪悪感も薄れます。また、仲間から阻害されないようにというピアプレッシャーも働きます。

 

この新型コロナウィルス感染拡大の中での閉塞感、また暴力団も資金難の中で、若年層へドラッグの密売を広げていることも一因でしょう。

 

一つひとつの相談に、親や警察との連携を探りながら対処しています。しかし、これには限りがあります。現在高校では、授業の補習でなかなか時間を割くことは難しいかもしれませんが、ホームルーム等で、特に静岡県、京都市内の高校は、ドラッグ、特に大麻についてきちんと指導して欲しいと考えています。

 

今や、ドラッグ問題は、自分の高校には存在するはずがない問題ではなく、少なくとも、処方薬や市販薬の乱用まで含めれば、どの高校にも必ず存在する問題なのです。

やまゆり園事件

神奈川県のやまゆり園で、たくさんの尊い命が失われた事件は、まさに四年前の今日でした。今日は、少し、私のことを書きます。

 

私は、今からおよそ40年前、二十代の時、五年間、横浜市立上菅田養護学校高等部(現在の上菅田個別支援学校)の教員として勤務しました。上菅田養護学校は、横浜市ではじめて、肢体不自由や重度重複障がいを持った子どもたちのために作られた学校です。

小学部、中学部、高等部の三部制で、200名以上の、軽度から重度まで幅広い子どもたちが学んでいました。

当時は、養護教育がまさにはじまった頃です。授業内容も、それぞれ手探りで、多くの若い教員が、それぞれの専門や特性を生かし、日々教育に取り組んでいました。

授業は、機能訓練から作業療法、将来に備えた職業教育、そして学科教育と多岐にわたっていました。

また、教員は、授業だけではなく、子どもたちの排泄補助、日常生活の自立指導まで、指導しなくてはなりません。子どもたちが、スクールバスで登校してくる朝9時から、下校する午後3時まで、息のつく暇もありませんでした。

私が、その中で学んだことがあります。教員の仕事は、ただ自分の知識を子どもたちに植え付けることではなく、その時に出会った子どもたちが必要としていることに答えることだと。このときの五年間の経験がなかったら、今の私は存在しません。

 

私は、高等部の教員でしたから、当然卒業していく子どもたちの進路を見つけなくてはいけません。軽度の障がいの子どもたちには、障がい者雇用枠による雇用がありましたが、それも数少なく、保護者や仲間の教員たちと、横浜の各地域に「作業所」を作っていきました。

 

その子どもたちが、年をとり、その親たちも70代、80代と高齢化し、子どもたちの日々の介護が難しくなった時、その子どもたちを預かり、守ってくれる施設が、「やまゆり園」でした。私の教え子の何人かもお世話になっていました。そして、この事件の被害者となってしまいました。

 

私は、上菅田養護学校であることを学びました。それが、私を、「夜回り先生」にした原点です。

 

100人の人間がいれば、100の個性があり、それぞれが一人ひとり違う生き方ができる。障がいもそんな個性の一つであり、お互いが助け合い、共生していく中で、お互いが学びあい、そして幸せを分かちあう。すべての人間には、幸せになる権利があり、また、すべての人間には、みんなを幸せにする義務がある。

 

あの事件の加害者である青年と、事件の前に出会うことができていれば・・・。それだけが無念です。

何かを見ず、何かを考えない

久しぶりに母校上智大学に行ってきました。

そして、学生が一人もいない教室で、ZOOMによるリモート授業をしてきました。

何か変な感覚で、正直に言えば、これが授業なのかと自問自答しました。

 

私は、上智大学の哲学科で、渡辺秀先生の元、「現象学」を学びました。「現象学」、ドイツの哲学者フッサールが始めた学問です。その時以来、すでに半世紀近く学び続けています。今回は、その「現象学」的考え方を書いてみます。

 

みなさん、何かを見るということは、他のものを見ないことを意味します。どうぞ、今すぐ、周りの何かを見てください。それが見えると同時に、その周りのものは、ぼけてしまい、見えなくなるはずです。

それと同じように、何かについて考えるということは、他のことを考えないことを意味します。今すぐ、何かを必死に考えてみてください。それを考えると同時に、他のことは頭の中から消えていくはずです。

 

私たち人間は、非常に不器用な存在です。何かにこだわれば、その他のことは失ってしまう。そして、あるものを見、あることを考え、そして、それと同時に、その周りのものを見失い、本来今そこにあるものを見失ってしまいます。

 

「現象学」には、「本質直感」ということばがあります。まずは、過去や今、体験していること、つまり見たり考えたりしていることを、いったん括弧に入れ(エポケー)

、こだわりを捨てて、その中に溶け込むということです。そして、そこから本質を捉えるということです。これは、仏教、特に禅宗の「止観」ともほぼ同じ概念です。

 

つまり、過去や今のこだわりを捨てて、そして「何かを見ず、何かを考えず」、今まさにみなさんの周りに存在する流れ、動きの中に身を投じ、そこから自身の中にわきあがるものに溶け込むということです。

 

本質、つまり本当のことは、あるものを見て捕らわれることや、あることを考え捕らわれることの中にはありません。今まさに起きている流れている、この流れの中に身を投じることのなかで、自然とわかるものなのです。

 

ぜひ、これをやってみてください。そこで、明日が見えてきます。自分という存在のあるべき明日が。

自分探し、止めよう

自分とは何でしょう。みなさんの中には、毎日この問で苦しんでいる人も多いと思います。

 

まずは、自分の姿を考えてみましょう。暗闇で君たちは自分の姿を見ることができますか。できません。昼の光の中ですら、鏡や水面の力を借りなくては、自分の姿を見ることはできません。しかも、もしもなさんが自分を映した鏡にゆがみがあったら、どうなるでしょう。みなさんは、今までの人生できちんとした鏡で自分自身の姿を何度となく見ています。ですから、鏡がゆがんでいるとすぐにわかり、きっと苦笑いするでしょう。でも、もし生まれたときからゆがんだ鏡で自分を見続けていたらどうなるでしょう。その姿が本当の自分の姿だと思いこんでしまいませんか。

 

みなさん、今度は自分の性格やこころについて考えてみましょう。

 

もしも、みなさんが生まれてから今までずっと、「駄目な奴だ、どうしようもない奴だ」と言われ続けたらどうなるでしょう。きっと、本当に自分は存在する価値もない人間なんだと、こころを閉ざし、しゃがみ込んでしまったり、もう自分なんてどうなってもいいとふてくされてしまうでしょう。

 

みなさんは、自分というのは、自分で作るものだと思っていませんか。実は違います。自分は、その時代や周りの環境、接する人たちや経験によって作られていくものです。まさに今のみなさん自身がそうやって作られたものです。

 

みなさんは、この世に真っ白なこころで生まれてきます。それが、生きていく日々と経験の中で、染められていき、そして、今自分自身と考えているものになっています。

 

今日、この日まで幸せな日々を過ごし、優しい両親や先生に恵まれた人も多いでしょう。でも、環境や親に恵まれず、いい先生たちとの出会いも、いい友人との出会いもなく、こころを汚されてしまった人たちも、数多くいるでしょう。自分を、駄目な人間だと追いつめ、明日を求めることを止めてしまった人たちも、たくさんいるでしょう。

 

そんな人たちにお願いがあります。過去のそして今の自分を捨ててみませんか。そして、明日から、もう一度すべての先入観や自分自身の思いこみを捨てて、新しい環境に出てみませんか。新しい人たちとの出会いを作りませんか。洋服の趣味も変え、言葉遣いも変え、行く場所も、行く時間も、つきあう人もすべて変えてみませんか。そして、明日を、自分を、一から作り直しませんか。

 

苦しんでいる人たちへ、今までの自分を捨てることで、苦しみから逃れることができます。明日が自然にやってきます。新しい明日が。

先入観を捨てよう

人間は、自分の生きてきた経験の中から、ものを考えていきます。私たちは、知らないことを話すことはできません。

また、私たち人間は、どうしても過去の経験に染められてものを考えてしまいます。

 

特に幼いころの厳しい体験や哀しい思い出は、その人のこころに一生にわたる深い傷や恐怖を刻み込みます。これを、トラウマといいます。小さい頃に、犬にかまれた経験を持つ子どもが、一生犬に対して恐怖感や嫌悪感を抱いてしまうということがあります。犬を見てしまうと、からだがすくんでしまったり、恐怖に震えてしまう。本当は、ほとんどの犬は、決して人をかむわけでも襲うわけでもないのに、一度の経験が、犬に対する間違った先入観を作ってしまいます。

 

これと同様に、幼いころに、親から虐待を受け続けた子どもは、こころを萎縮させ人間不信になってしまうケースが多いと言われていますし、またその反対に暴力的になり、非行・犯罪へと向かってしまうケースも多いと言われています。私の元にも、このような問題を抱えた多くの子どもたちから相談のメールが来ます。

 

みなさん、この先入観というのは、恐ろしいものです。たった一度の嫌なあるいは恐ろしい体験で、自分の一生を決めてしまうことになります。

 

みなさん、この先入観を一度捨ててみませんか。過去の経験からの知識をすべて捨てて、そして新たに色々なことに挑戦し、世界を拓いてみませんか。みなさんの中には、さまざまな先入観があると思います。先生から嫌な思いをされた人は、学校や先生に対する憎しみや恐怖が、過去にいじめにあった人には、他の人と触れあい、共に生きる事への恐怖が。つきあっている人に裏切られた人には、男性不信や女性不信が・・・。それらの過去から引きずっているすべてを捨ててみませんか。そして、こころを白紙にして、もう一度、親や先生、仲間や大人たちを信じて、共に語り、共に助け合い、共に生きてみませんか。

 

過去の一度や二度の経験で、こころを閉ざしてしまうことは、みなさんの明日を閉ざすことです。確かに過去は消せません。やり直しもできません。でも、捨て去ることはできます。そして、今をスタートとして、新しい明日を作ることはできます。

 

まずは、明日散歩をしてみましょう。そして、咲き誇るできるだけたくさんの花を見ましょう。そして、そっと花弁に触れ、においを嗅いでみましょう。それから、空を眺めましょう。みなさんのこころ、きっときっと軽くなります。そして、そこから一歩二歩ステップを。新しい今の始まりです。過去なんてどうでもいい。生き直しましょう。