夜回り先生 水谷 修
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Osamu Mizutani Official BLOG

こころの病の予防法

今日は、みなさんに聞きたいことがあります。

 

それは、四月から今日まで、夜、眠れない夜や眠りにくい夜があったかどうかです。どうですか。もし、あったとしたら、それは、こころに病の兆候があるということになります。

 

リストカットやうつ病など、後天的なこころの病は、文明病といわれています。アメリカやイギリス、フランス、ドイツ、日本など、先進国で多く発症しているからです。

でも、これも当たり前です。アフリカや南アジア、南アメリカなど、多くの国々の人たちは、朝早くから夜遅くまで、農場や工場などで、からだをぼろぼろに使って働いています。生きていくために。夜は、悩んでいる暇などありません。ただ疲れ切って眠るだけです。

 

後天的こころの病の一番の原因は、ストレスだといわれています。ストレスとは、こころとあたまが疲れているのに、からだが疲れていない。この心身の分離した状態を、心理学ではストレスと呼びます。

 

私たちが生きているこの時代を考えてみて下さい。からだは、楽です。ほとんど使う必要はありません。だれかと直接会わなくても、電話で話ができますし、移動も車や電車。スポーツや音楽も、直接見に行かなくても、テレビで見て、聞くことができます。

その一方で、街を歩いても、どこにいても、人の目を気にして、また、耳を澄まし車に気を配り、こころとあたまは、いつもぴりぴりしています。これが、こころの病の原因となっています。

 

今、日本では、百万人が、うつ病と認定され、一千百万人が、心療内科や精神科でこころの病の治療を受けています。大変な時代になっています。

 

それでは、みなさんのこころが病にならないようにするには、まずは何が大切だと思いますか。

実は、こころの病の一番の予防法は、からだをいつもきちんと健康に保ち、そして体調を最良に保つことです。からだに病があれば、体調が悪ければ、こころも暗くなってしまいます。熱があったり、痛みがあるとき、楽しいことを考えることはできないでしょう。それと同じです。

それでは、健康や体調を良くするためには、何をしたらいいのでしょうか。実は、簡単です。生活習慣をきちんと整えるのです。夜は、十時には眠り、朝は六時に起床。そしてきちんと朝の散歩と朝食。昼は、仕事や勉強だけでなく、きちんと太陽の下でからだを動かす。これを毎日きちんと繰り返すこと。これが、一番のこころの病の予防法です。

 

子どもたちへ

このところ、子どもたちの鉄道での自死が続いています。奈良でも、尊い少女のいのちが失われました。哀しいです。

 

子どもたち、君たちは、あまりにも生きている時間がまだ短い。すなわち、人生の経験が少ない。だから、とても、考えることが単純で過激です。

 

一人の大人から嫌な思いをさせられたり、裏切られれば、「大人なんて」と、すべての大人に背を向ける。一人の先生とぶつかれば、「学校なんて、先生なんて」と、こころを閉ざし逃げる。一人の友だちを失えば、「私は、孤独、死にたい」と、落ち込む。

 

でも、子どもたち、この世には、何人の大人がいるのですか。君の学校には、何人の先生がいますか。友だちは、何人作ることができるのですか。子どもたち、お願いです。一人の大人、たとえ親から、嫌なことをされても、大人に背を向けないでください。回りの大人たちに、それを訴え、救いを求めて下さい。確かに、世の中には、悪い大人はいます。でも、その数十倍、数百倍のいい大人たちが、必ず君に救いの手をさしのべてくれます。

 

子どもたち、お願いです。学校で、先生とぶつかっても、こころを閉ざさないで下さい。校長先生や他の先生がたに、泣いていい、叫んでいい、救いを求めて下さい。救いは必ず来ます。

 

一人の友だちを失ったからと、「死にたい」と言わないでください。そんなときこそ、多くの回りの仲間たちに、たくさんの優しさを配って、新しい友だちをたくさん作るのです。

 

子どもたち、人は、人と人との直接の触れあいの中でしか、自分を磨くことはできません。明日をつくることはできません。どんなにつらくても、厳しくても、人との触れあいを、自ら断ってはならないのです。それは、君たちの明日を汚し、奪ってしまうことになりますから。

 

私は、中学の時、二年間、完全にこころを閉ざしました。ある教員からの、理由のない暴力が原因でした。だれとも話をすることを止め、中学にも試験の時以外は行くことを止め、ただ図書館に通い、勉強と読書。確かに得たものもたくさんあります。たくさんの知識と論理性。社会的に恵まれない人たちへの優しさ、権力を振り回す人への怒り・・・。今の、私の活動の基本は、このときに作られたと思います。

 

しかし、失ったものも多い。人との協調性や多くの友人、思い出・・・。

 

子どもたち、だれからであれ、どんなに嫌な思いをさせられても、絶対にこころを閉ざさないでください。死なないでください。ともかく、一人でも多くの人に、救いを求めて下さい。救いは、必ず来ます。

「感性」、「理性」、「悟性」

今日は、少しみなさんの頭が痒くなるような哲学の話をしてみます。

 

哲学では、一般的に、人間のこころの中に、「感性」と「理性」と「悟性」が存在すると考えます。こんな難しいことばを使われても何もわからないでしょう。それでは簡単に説明します。

 

「感性」とは、感じたり思ったりする能力です。花を見て、美しいと感じたり、きれいな音楽を聴いて、こころが落ち着くと感じる。あるいは、逆に、愛する人を亡くして、哀しいと感じたり、卑怯なことをされて憎いと感じる。これが、「感性」です。この「感性」の豊かな人は、芸術家に向いているでしょう。

「感性」には、もっと原始的なものもあります。お腹がすいているときに、店頭に並ぶパンを見て、欲しいと思ったり、人が自分より良いものを持っていて、自分も欲しいと思う。これも「感性」です。この「感性」の豊かな人は、気をつけてください。間違いをしでかす可能性大です。

 

「理性」とは、考える能力です。目の前の美しい花を、摘み取り自分のものにしたいけれど、そうすれば困る人がいる。だから止めよう。愛する人がいるけれど、その人は別な人を愛してる。その大切な人を守るためにも、自らは愛を抑える。これが、「理性」の働きです。

この「理性」は、良い人との出会いや、きちんとした教育を通して、人が身につけていくものです。「理性」は、人が、社会の中で生きていく上で、最も大切なものです。この「理性」の優れている人は、人から愛され、そして幸せな人生を過ごしていくでしょう。

 

「悟性」とは、「理性」を反省する能力のことです。たとえば、人のものを、欲しいからといって、奪うことは、人に迷惑をかける行為だからしないという、「理性」の決定があったとします。これは、これで、十分に尊いことです。でも、そこで、考えることを止めずに、なぜ、自分がそれを欲しかったのか。奪うと、どのような結果になり、どのように迷惑をかけるのか。あるいは、もっと根本的に、ここにある欲望とは、人間にとって、どのようなものなのか。このように、深く、その問題の本質まで考え、理論化していこうとする。これが「悟性」の力です。この能力の優れている人は、学者に向いているでしょう。

 

私が、ここに難しいことを書いたことには理由があります。今、みなさんを見ていて、「感性」だけで生きている人が多いと、感じています。お願いです。きちんと、「理性」、「悟性」も磨こう。明日のために。

新型コロナウィルスのワクチンについて

私の90歳になる母が、二度目のワクチン接種を終えました。思えば、昨年の感染の始まりから、長い時間がかかりました。

 

何の副作用もなく、摂取後、10日間たったら、かつてのように外出できることを楽しみにしています。

 

私にも、ワクチン接種の登録カードが届きました。7月8日には、一度目の摂取を受けることができます。

 

このワクチン接種について、たくさんの摂取しないようにというメールが届いています。報道各社や各自治体にも多数届いているようです。中には、このワクチンには、意図的にある種の遺伝子操作された物質が組み込まれていて、それを打てば危険だと書かれたものもあります。

その根拠は、いずれも海外の自称専門家が書いたと言われるネット記事であり、私も確認しましたが、どれも科学的根拠の無いものでした。

 

たしかに、あらゆるワクチンに何らかの副作用や危険性はあります。異物を体内に入れるわけですから。しかし、ワクチンがもたらす恩恵のほうがはるかに大きい。それは、科学的にきちんと証明されています。

 

自分の命を守り、また他の人の命を守るためにも、私は、ワクチン接種を喜んで受けます。

「感じること」と「考えること」

みなさん、今回は、「感じること」ことと、「考えること」の違いを話してみようと思います。

 

ところで、みなさんは、このどちらが大切だと思いますか。このどちらが、より確実だと思いますか。多分ほとんどの人が、「考えること」と答えると思います。でも、それは、事実でしょうか。私は、違うと思います。

 

「感じること」は、直接の体験から生まれます。今、ここで直接経験したことに対して、私たちのこころが動き、即座にあるイメージをこころに浮かべてくれる。これが、「感じること」です。

 

でも、それに対して、「考えること」は、その「感じること」を、自分の過去の経験や知識と照らし合わせ、頭の中で、イメージを作ることです。わかりますか。「感じること」は、直接の体験ですが、「考えること」は、自分が勝手に行う想像なのです。

 

たとえてみましょう。だれかに、ひどいことばを言われたり、無視されたりといういじめで、つらくなったり、職場や学校に行きたくなくなったりすることは、「感じること」です。

みなさんのこころが、みなさんに、このままでは、こころが壊れてしまいますよと知らせてくれています。

 

でも、過去にいじめられた経験があるために、人が怖くなり、働くこともできず、家に引きこもる。これは、「考えること」です。

世の中には、いじめをするようなひどい人より、優しいすばらしい人のほうが、はるかに多いのに、過去の経験から、こころを閉ざし、そして、世の中のすべての人が、自分をいじめると勝手に考えてしまっています。

 

私のもとには、たくさんの、過去のいじめによって、人が怖くなり、引きこもっている人たちからの相談があります。

 

君たちにも、こんな経験はありませんか。冬にドアノブを触ったら静電気でびりっときてしまった。また、ドアノブに触ろうとしたら、その感電したときのことを思いだして、また静電気が起こるのではないかと考えてしまい、手が引っ込んでしまった。まさに、これです。何も起こらないかもしれないのに。

 

みなさん、「考えること」は、必ず、君自身の過去の経験や知識によって、汚されてしまいます。そして、本当のものを見失ってしまいます。

 

「考えること」を少し横に置いて、「感じること」を中心に生きてみませんか。そのためには、できる限り、自然や人と直接触れあうことです。そして、素直にこころで感じることです。過去に汚されず、今を、日々新たに感じて生きる。これが、新しい明日を拓きます。