夜回り先生 水谷 修
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Osamu Mizutani Official BLOG

定時制高校での講演

一昨日は、神奈川県の夜間定時制高校で講演してきました。

懐かしさに浸りながら、こころを込めて講演してきました。

ただ、マスクを付けての講演は、なかなかつらいものがありました。

 

しかし、定時制高校の生徒たち、私が、教えていた頃とは大きく変わりました。

おとなしい生徒たち、取り囲む先生たちも、優しそうな先生たちでした。

 

働きながら学ぶことのできる定時制高校、少人数で丁寧に学ぶことのできる定時制高校。そんな定時制高校ならではの良さを感じてきました。

 

明日は、横須賀市の中学校で講演してきます。

どんな生徒たちとの出会いがあるのか、とても楽しみです。

 

今年もあとわずか、私の講演も、あと2本となりました。

明日は、久しぶりの学校講演です

明日は、本当に久しぶりに、神奈川県の定時制高校で講演をしてきます。

どんな生徒たちとの出会いがあるのか、楽しみです。

 

リモートではなく、実際に人の前で講演するのは、四ヶ月ぶりです。何か緊張しています。

 

そういえば、昨日、次の本を書き上げました。最後は、72時間徹夜で休むことなく書き上げました。おもろい分野についての本ですが、きっと多くの人の役に立つと思います。来春には、出版できると思います。

 

また、この二週間取り組んでいた、事務所の庭の整備も、今日で終わります。こつこつと、庭木の剪定、花壇の整備、土作りと取り組んできました。すでに多くの花が、庭を彩っています。

 

追伸

 

トレーニングも順調に続けています。確実に筋肉がつき、ウェストは順調に細くなっています。体力も増し、頭もさえてきています。

運動、いいですよ。

安楽死、そして自死についての考察

  • 安楽死について(ベビードゥー事件の事例)どう思うか。

ベビードゥーの事例において、両親は、重度の障がいを持って生まれた子どもの安楽死を病院に要請した。私は、この両親の判断は、間違いだと、いや、それどころが殺人に値する犯罪だと考える。

 

出生した子どもは、その子ども自身が、私たちと同様、生きる権利と、幸せになる権利をすでに持っている。また、その生き方についても、自分自身で決定する権利を持っている。ただ、子どもの場合、その権利主張や生き方の選択は、まだ自分自身ではできないために、それを親が守ることとなっている。その子どもを守るべき親が、障がいがあるという理由で、その命を奪うことは許されることではない。

 

これを認めてしまえば、たとえば、2016年に神奈川県で起きた「相模原障がい者施設殺傷事件」において、事件後加害者が、報道機関に語った、「重度の障害者を生かすために莫大な費用がかかっている。重度の障がい者は安楽死すべきだ。事件を起こしたのは不幸を減らすため。殺害した自分は救世主だ。犯行は、日本のためだ」というあまりにひどい論も一考しなくてはならなくなる。

 

しかし、現在の日本では、これと同様のことが日々行われている。出生前検診である。この検診で、障がい者が生まれる可能性が高いと診断を受けた多くのケースで、妊娠中絶が行われているという事実がある。私は、これも許すことができない。出生前とはいえ、お腹に宿った尊い命を、障がいを持って生まれる可能性が高いという理由で中絶する。ここに、私は、かつてのドイツにおいてヒットラーの指揮下にナチスが行った優性主義政策と同様の影をみる。障がいも一つの個性として、ともに共生できる社会をめざす現在において、これは、犯罪といってもいいだろう。

 

ただ、その一方で、障がいを持つ子どもを育てることは、たくさんのお金が必要で、また多くの労苦を伴うことも事実である。それを解決するためにも、子どもは、親のものではなく、国の宝、国をあげてどんな子どもであれ、守り育てていくという政策が必要である。特に、障がいを持つ子どもを育てる家庭に対しては、諸費用の補助、人的補助などを、さらにきちんと法整備し、各地方自治体と協力して、守っていくことが求められている。

 

  • 積極的な安楽死を認めるべきかどうか、合法化すべきか否か。

日本では、現行の法律のもとで、消極的安楽死、つまり積極的治療を停止することにより、結果的に患者を死に至らせることは認められているが、積極的安楽死、つまり、致死性の薬物の服用や投与により、患者を死に至らせることは、原則として認められていない。

 

しかし、オランダでは、消極的安楽死はもとより、積極的安楽死を法的に認めている。ただし、以下の四つの条件が付けられている。

  • 患者は不治の病である。
  • 耐えがたい苦痛がある。
  • 患者は死にたいと希望している。
  • 実施するのは医師で、他の医師と相談した。

私は、これを認めることができない。確かに、耐えがたい痛みの中で死を訴える患者や親族を見るに見かねて、その死を幇助する。その行為を、違法として犯罪として裁くことには、違和感はおぼえる。しかし、当然現在の医療水準から見れば、何らかの緩和医療は可能であるはずだし、精神的な苦悩についても、ターミナルケアなどの精神的援助や投薬により、対処可能なはずである。

 

私にとって、安楽死を認めると言うことは、自分での積極的安楽死とも言うべき自死を認めることと同じである。自分の命は自分のものだから、自分で生死を判断できる。だから、自殺してもいい、ということになってしまう。現に、日本では、たくさんの人たち、特に若者たちが、いとも簡単に自ら命を絶っている。その後、嘆き苦しむ人たちが、たくさんいるにもかかわらず。

 

はたして、その人の命は、その人だけのものなのだろうか。私は、そうは思わない。その人を生んだ親、愛する人、大切な友人、すべての人のものだと考える。その人の死は、残された多くの人たちを悲しませ、苦しめる。この理由だけでも、私にとって、許されることではない。

 

もし、どうしても、日本で安楽死を認めると言うことになるのならば、オランダでの四つの条件にあと一つ条件を付け足すべきである。

その条件とは、

  • 患者と関わりを持つ家族や友人すべての人の同意があること。

誰が考えても、この五つ目の条件を満たすことは不可能である。そうである以上、私は、安楽死は、認めるべきではないと堅く考えている。

 

死は、私たちに決定権のある選択権のある行為となってはならない。生まれてきた以上人は必ず死ぬ。でも、それは、受け入れるものであって、求めたり決定したりするものではない。私は、そう考える。

 

冬到来

冬がはじまったようです。

 

私は、冬が大好きです。夏は苦手です。夏は暑苦しく、何か人とあまり関わりたくない季節です。人の多い場所にいると、それだけで疲れてしまいます。そして、熱気であまり深くものを考えたくなくなってしまいます。また、夏は、何か町全体が、お祭りや花火大会で活気づいていて、夜回りをしていても、孤独を感じ寂しくなってしまいます。その一方で、多くの人たちは、こころが浮き立っていて、服装も何か危なげで、心配でたまりません。講演会場で、夜の町で、汗がだらだら、冬なら二日は同じ下着をそして三日は同じシャツを着ることができるのに、毎日替えなくてはなりません。移動の時の荷物も重くなりつらい季節です。

 

冬はいいです。心地よい冷たい風の中で頭が冴えわたります。感情的にではなく、冷静にものを考えることができます。何より、夜回りをしていても、子どもたちの数が圧倒的に街角から減ります。地下街のある町では、その地下に子どもたちが集まりますから、簡単に子どもたちと出会うことができます。

 

みなさんは冬が好きですか。たぶん多くの人たちは、嫌いだというでしょう。寒くて自由に飛び回ることができないから。冬は、何かからだが縮こまり、寂しくなるから。

 

でもね、だから冬は最高なのです。からだが縮こまり動きが小さくなります。そんな時ごく身近な周りを眺めてごらんなさい。もしかしたら、みなさんの側で、重い荷物に苦しむお年寄りが見えるかもしれません。そしたら、手伝ってあげてくれませんか。きっと返ってくる「ありがとう」のことばが、みなさんのこころをぽかぽかにしてくれます。私は、いつもそうやってこころを暖めています。こころの中の寂しさや哀しみのこころを溶かしてくれます。また、遠くの空や山々を見てごらんなさい。空気がつめたく澄んでいますから、くっきりとその色や姿を現しています。

 

確かに冬は、何か寂しくもの哀しい季節です。様々なはでな彩りが自然の中から消え、また美しく楽しげな鳥の声も去ります。私は、だから冬が好きなのです。

 

夜、寂しげにたたずむ子どもたちの側に行き、話し相手になる、それだけでその子どもたちのこころに、私のこころにたくさんの暖かさが生まれます。家族のためにあったかいシチューや鍋料理を、料理の本を見ながら作り、家族みんなでわいわい食事する。これだけで、家族の中に暖かい優しさが生まれます。

 

みなさん、お願いです。この冬に数多くの暖かさを作ろう。配ろう。

トレーニング最高です

毎日、縄跳び、スクワッドなどのトレーニングを、限界まで繰り返しています。

からだ中筋肉痛。関節のいたるところが悲鳴を上げています。

 

しかし、からだは軽く、頭もすっきりしています。

 

仏教には、「身心一如」ということばがあります。からだとこころは密接に関係しているという意味です。からだの調子が良ければ、こころも調子が良くなる。逆にからだの調子が悪ければ、こころの調子も悪くなる。また、こころの調子が悪ければ、身体の調子も悪くなり、こころの調子が良ければ、身体も調子よくなるという意味です。

私は今、このことばを実感しています。

 

みなさんに提案です。みなさんもからだを鍛えてみませんか。

「こころの病は、からだから」です。