夜回り先生 水谷 修
公式ブログ

Osamu Mizutani Official BLOG

新しいプロジェクト

このところ、20代から50代の引きこもりの方々からの相談が多く届いています。

 

中学や高校でのいじめや、家庭での虐待から、人が怖くなり長く引きこもりになってしまった方々からの相談です。

 

私は、20年ほど前から、引きこもりの方々の支援を強く国に訴え、2007年には、友人の国会議員たちが「ニート対策基本法」を立法し、就労の支援の体制を作りました。その後も、A型、B型の就労支援のための作業所の設置を進め、現在数多くの方々が、将来の社会復帰と自立のために、そこで学び、そして働いていらっしゃいます。

 

しかし、この体制は、私にとっては、いまだ不完全なもので、その成果もまだまだです。

 

今政府は、地方振興を進めています。また、全国で消滅していく書店の保護を計画しています。

 

私は、全国の滅び行く商店街に、書店を作り、それをA型就労作業所の活動の中に組み込み、引きこもりの方々が、そこで本を販売し、その収益で自立を目指す体制が作れないかと、現在動いています。

 

先日は、この計画の実現のために、山梨県の長崎知事とお会いしてきました。なかなかの鋭い感性と障がいを持つ人たちへの共感をもつ人物でした。

 

国の発表では、現在146万人の人たちが引きこもりとなっていると言われています。その人たちの支援に全力で当たっていきます。

 

子どもたちへ—No.27

 子どもたち、人間は、自分の生きてきた経験の中から、ものを考えていきます。私たちは、知らないことを話すことはできません。

 

 また、私たち人間は、どうしても過去の経験に染められてものを考えてしまいます。特に幼いころの厳しい体験や哀しい思い出は、その人のこころに一生にわたる深い傷や恐怖を刻み込みます。これを、トラウマといいます。

 

 小さい頃に、犬にかまれた経験を持つ子どもが、一生犬に対して恐怖感や嫌悪感を抱いてしまうということがあります。犬を見てしまうと、からだがすくんでしまったり、恐怖に震えてしまう。本当は、ほとんどの犬は、決して人をかむわけでも襲うわけでもないのに、一度の経験が、犬に対する間違った先入観を作ってしまいます。

 

 これと同様に、幼いころに、親から虐待を受け続けた子どもは、こころを萎縮させ人間不信になってしまうケースが多いと言われていますし、またその反対に暴力的になり、非行・犯罪へと向かってしまうケースも多いと言われています。私の元にも、このような問題を抱えた多くの子どもたちから相談のメールが来ます。

 

 子どもたち、この先入観というのは、恐ろしいものです。たった一度の嫌なあるいは恐ろしい体験で、自分の一生を決めてしまうことになります。

 

 子どもたち、この先入観を一度捨ててみませんか。過去の経験からの知識をすべて捨てて、そして新たに色々なことに挑戦し、世界を拓いてみませんか。子どもたち、君たちの中には、さまざまな先入観があると思います。先生から嫌な思いをされた人は、学校や先生に対する憎しみや恐怖が、過去にいじめにあった人には、他の人と触れあい、共に生きる事への恐怖が。つきあっている人に裏切られた人には、男性不信や女性不信が・・・。それらの過去から引きずっているすべてを捨ててみませんか。

 

 そして、こころを白紙にして、もう一度、親や先生、仲間や大人たちを信じて、共に語り、共に助け合い、共に生きてみませんか。

 

 子どもたち、過去の一度や二度の経験で、こころを閉ざしてしまうことは、君たちの明日を閉ざすことです。確かに過去は消せません。やり直しもできません。でも、捨て去ることはできます。

 

 そして、今をスタートとして、新しい明日を作ることはできます。まずは、明日散歩をしてみましょう。そして、咲き誇るできるだけたくさんの花を見ましょう。そして、そっと花弁に触れ、においを嗅いでみましょう。それから、空を眺めましょう。君たちのこころ、きっときっと軽くなります。そして、そこから一歩二歩ステップを。君の新しいいまの始まりです。過去なんてどうでもいい。生き直しましょう。

忙しい日々です

この二週間、取材、講演と忙しい日々を過ごしております。

 

車での移動がほとんどで、本来は、車好きの私にとって楽な移動のはずなのですが、年のせいかなかなか疲れてしまいます。

 

先日は、東京都立の高校での講演でした。たくさんの生徒に関わった子供たちの哀しみを伝えることを通して、いのちの大切さを語ってきました。

 

来週からは、山梨県を始まりとして、徳島県、大阪府と講演会が続きます。また、どんな出会いがあるのか楽しみです。

 

子どもたちへ—No.26

子どもたち、このところ少し気になっていることがあります。それは、町でも電車やバスの中でも、下を向いている子どもたちが多いことです。携帯をいじったり、ゲームをしたり、あるいはただ足下を眺めている子どもたちが多いことです。

 

 私は、昼に街に出ると、また電車やバスの中でも、いつも顔を上げて周りを眺めています。美しい花を探したり、周りの看板をながめ、お土産にするその町の特産品を探したり、周りの人たちの様子を特に子どもたちの様子を眺めながら、もし心配そうな影があったら話しかけたりしています。

 

  夜の街に出ると、当然夜回りのときですが、町を行き来する人たちの様子を、注意深く眺めます。そして、薬物の売人がいれば、それを眺め続けます。当然彼らは去ります。からだを売っている女性たちがいれば、名刺を渡して昼の世界に戻るよう話します。たむろしている子どもたちがいれば、私もしゃがみ込み話し合い、彼らを帰します。

 

 私にとって、家や事務所から一歩外に出るということは、いろいろなものを見つめ、発見することです。目でいろいろなものに出会い、そして学び、そして関係を持つことです.

 

 私の人生の中で、見ることを通して、数えきれないほど多くの出会いを作ってきましたし、多くのことを学んできました。私にとって、生きるということは見ること。より深く生きるということは、より多くのものを見ることでした。

 

 子どもたち、君たちはどうですか。毎日どれだけたくさんのものをきちんと見つめていますか。美しい空、美しい花、さまざまな人の顔、おいしそうな料理・・・。君たちの回りには、いつもいろいろなものが君たちとの出会いを待っています。しかもその出会いは、何の気をつかうこともなく、ただ何かを眺めることで、見つめることですぐに始まるのです。そして、たくさんのことを君たちに教えてくれます。それだけではなく、君たちのこころに、安らぎや優しさの種を蒔いてくれます。

 

 子どもたち、生きるということは、常に何かを意識する、すなわち見るということです。もし君たちが、外を回りを見ることを止めてしまうと、どういう事になるでしょう。それでも生きている以上、何かを見ようとします。そして、自分の過去や今を見てしまいます。特に哀しみや苦しみを。それが、君たちのこころを引き裂き、さらなる哀しみに落とし込みます。

 

 子どもたち、自分を見ること、意識すること止めよう。外に出て、いっぱい美しいものや優しいものを探そう。それが、君たちのこころを拓いていきます。

子どもたちへ No.25

 私は、昨日久しぶりに夕方から夜まで、テレビを見ました。ニュースから始まり、お笑い番組と三時間もテレビを見続けました。そして、テレビが恐ろしくなりました。

 

 ニュースの中では、大きな交通事故によって小さな子どもが亡くなったことを報道していました。この子どもが亡くなった現場や血のついた車、道路の血のりまで、画面に映し出されました。

 

  また、うくらいなでの戦争で多くの人たち、子供たちが亡くなったことも報道されていました。ここでも爆破され無惨な姿となった建物や、子どもを亡くし泣き叫ぶ親の姿がただ淡々と映し出されました。

 

 私は、そんなニュースを、コーヒーを片手に眺めている自分に恐ろしさを感じました。

 

 お笑い番組では、何組かの芸人がそれぞれのネタを披露していました。パンツ一つでただ動き叫ぶ芸人、相方をただ馬鹿にし、ひっぱたき笑いをとる芸人、自分の顔を見にくくゆがませ、その顔で笑いをとる芸人・・・。

 

 そんな芸を見て、笑っている自分に腹が立ちました。そして、哀しくなりました。

 

 子どもたち、テレビは恐ろしいです。人の死や人の哀しみ、人の愚かさを、画面上でこれでもかというぐらい、私たちに向けて突きつけてきます。それを、私たちは画面に向かいただ見続ける。

 

 本来、その死の当事者や関係者であったら哀しみで耐えられないような映像やコメントを、何もこころを動かされることなく、ただ「こんな事があったんだ」と眺め、自分の大切な人や家族だったら、「そんな馬鹿なことはするなよ」と止めるだろう愚かなことを画面上でこれでもかというぐらい繰り広げる人たちを見て、笑い転げる。何かおかしくありませんか。これでいいのでしょうか。

 

 子どもたち、テレビに対して私たちは、常に第三者です。参加することはできませんから、いつもただ淡々と見続ける。でも、これが君たちのこころや生き方を変えてしまう可能性もあります。目の前でいじめを見ても、まるでテレビの画面上で見ているように、そのまま見過ごしたり、事件が目の前であっても、やはり自分とは関係ないと見逃したり・・・。君たちには、そんな経験はありませんか。

 

 子どもたち、生きるということは参加することです。第三者として傍観することではありません。他の人の哀しみには、共に泣き哀しみそして慰め、他の人の怒りには、時に共に怒り、時にそれを鎮め、自分の回りで日々刻々と起こることに、自ら直接加わること、それが生きるということです。子どもたち、テレビの恐ろしさ忘れないでください