夜回り先生 水谷 修
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Osamu Mizutani Official BLOG

こころの汚れ

私が「夜回り」をはじめて、ついに三十年目を迎えました。あっという間の三十年でした。たくさんの子どもたちとの出会いがあった日々でした。

私は、今から、三十年前の四月、横浜の名門受験高校から夜間定時制高校に異動しました。それは、一人の親友とのけんかが原因でした。三十一年前の十二月、東京の夜間定時制高校の教員をやっている一人の友人から、学校に電話がありました。彼は、切羽詰まっていました。「水谷、俺は、こんな学校じゃ教員をやっていられない。教員を辞める」私に、彼は言いました。私は、「やけを起こすな。ともかく今夜会おう」彼と、その夜、寿司屋で会いました。

寿司屋で刺身の盛り合わせを見た彼は、私にこう言いました。「水谷、寿司だってネタを選ぶ。腐った魚で旨い寿司は、作れないだろう。教育だって同じだ。うちの学校の、腐った子どもにいい教育なんてできない。」私は、彼を叱りました。「腐った子どもなんていない。思いだせ。赤ちゃんがおぎゃーと産まれたとき、どの赤ちゃんが、将来、親を泣かしてやれ、悪いことをしてやれ、リストカットしてやれ、自死してやれと思って生まれてくる?そんな赤ちゃんは、いないだろう。どんな赤ちゃんも、父さん、母さん、幸せになりたいと、真っ白なこころで生まれてくるはずだ。そんな子どもたちを腐らせたのはだれだ。そんな腐らされた子どもたちを救うことが、俺たち教員の仕事だろう」彼は、私に言いました。「やっていないお前に言われたくない」私は、「わかった。四月から、俺が夜間定時制高校に行く。その代わり、お前は教員を辞めろ。生徒を腐ったなんて思っているお前に、教育なんてできない」私のこの一言が、私の人生を変えました。

私は、この三十年、五十万人を超える、今を悩み苦しむ子どもたちからの相談を受けてきました。そして、一万五千人近い、夜の世界で明日を見失い這い回る子どもたちと寄りそって生きてきました。

みなさん、日々を生き抜くなかで、自らこころを汚すこともあります。だれかに汚されることもあります。もしかしたら、生きると言うことは、こころを汚し汚されるということかもしれません。どうぞ、周りの大人たちを見てみてください。純真なこころの人なら、すべての大人に、こころの汚れを見ることができるでしょう。でも、汚れは落とすことができます。その汚れを、洗い流すのです。そこには、みなさんが生まれたときと同じ、真っ白い美しいこころが、いつも潜んでいます。

 

「感じること」と「考えること」

みなさん、今日は、「感じること」ことと、「考えること」の違いを話してみようと思います。ところで、みなさんは、このどちらが大切だと思いますか。このどちらが、より確実だと思いますか。多分ほとんどの人が、「考えること」と答えると思います。でも、それは、事実でしょうか。私は、違うと思います。

「感じること」は、直接の体験から生まれます。今、ここで直接経験したことに対して、私たちのこころが動き、即座にあるイメージをこころに浮かべてくれる。これが、「感じること」です。でも、それに対して、「考えること」は、その「感じること」を、自分の過去の経験や知識と照らし合わせ、頭の中で、イメージを作ることです。わかりますか。「感じること」は、直接の体験ですが、「考えること」は、自分が勝手に行う想像なのです。

たとえてみましょう。だれかに、ひどいことばを言われたり、無視されたりといういじめで、つらくなったり、学校に行きたくなくなったりすることは、「感じること」です。みなさんのこころが、このままでは、こころが壊れてしまいますよと知らせてくれています。でも、過去にいじめられた経験があるために、人が怖くなり、働くこともできず、家に引きこもる。これは、「考えること」です。世の中には、いじめをするようなひどい人より、優しいすばらしい人のほうが、はるかに多いのに、過去の経験から、こころを閉ざし、そして、世の中のすべての人が、自分をいじめると勝手に考えてしまっています。

私のもとには、たくさんの、過去のいじめによって、人が怖くなり、引きこもっている人たちからの相談があります。みなさんにも、こんな経験はありませんか。冬にドアノブを触ったら静電気でびりっときてしまった。また、ドアノブに触ろうとしたら、その感電したときのことを思いだして、また静電気が起こるのではないかと考えてしまい、手が引っ込んでしまった。まさに、これです。何も起こらないかもしれないのに。

みなさん、「考えること」は、必ず、みなさん自身の過去の経験や知識によって、汚されてしまいます。そして、本当のものを見失ってしまいます。「考えること」を少し横に置いて、「感じること」を中心に生きてみませんか。そのためには、できる限り、自然や人と直接触れあうことです。そして、素直にこころで感じることです。過去に汚されず、今を、日々新たに感じて生きる。これが、新しい明日を拓きます。

旅に出よう

私は、ずっと講演で日本中を走り回っています。昨秋は、気温-5度の函館から、気温28度の石垣島に、さすがにきつかったです。でも、旅は、いいものです。何のしがらみもない、見ず知らずの人たちとの数多くの出会いが、人の素晴らしさを教えてくれますし、その土地土地の景色や食べ物が、私を癒やしてくれます。

そういえば、私の青春時代、つらいとき、悩んだときは、多くの青年は、家や学校から離れ、旅をしました。私は、高校時代、高校で、つきあっていた彼女から、一通の手紙を手渡されました。そこには、一言「さよなら」ということばが。私は、すぐに高校を飛び出し、そして湘南の海岸に。そして、日が暮れるまで、砂浜で海と空を眺めていました。夕日が、海の向こうで沈むころ、失恋で傷ついた私のこころは、少し元気になっていました。

私の友人は、大切な仲間を自死によって失った哀しみの中で、高校に休学届をだし、親の反対も押し切り、日本中、アルバイトをしながら旅しました。数ヶ月後に戻ってきた彼は、別人のように輝いていました。

みなさん、でも、今多くの子どもたち、若者たちは、哀しいとき、つらいとき、家の中に引きこもってしまいます。そして、昼夜逆転の生活。暗い、寂しい夜に染められて、さらに苦しんでいきます。私のもとには、このような子どもたちからの相談が、途切れることがありません。ここに、救いはありません。君たちを苦しめているのは、今の生活です。家庭、学校、地域、そこに苦しみの原因があるはずです。その苦しみの原因のなかに居続けても、何の解決も、明日も来ません。

たしかに逃げることは大切です。私も、多くのいじめや虐待で苦しむ子どもたちに、「逃げよう」と、アドバイスしてきました。でも、家に、部屋に閉じこもることは、逃げることになっているのでしょうか。むしろ、苦しみの中心に居続けているだけではないでしょうか。

私は、中学の時、先生たちからの暴力で、学校に行くことができなくなりました。でも、毎朝、お弁当を持って、図書館や緑豊かな公園で、勉強や読書をしていました。あのとき、もしも、家に閉じこもっていたらと考えると、身震いします。

みなさん、お願いです。つらいとき、哀しいとき、旅に出よう。そして、自分を苦しめた社会とは違う社会と触れあおう。

無財の七施

みなさん、先日、私はとっても幸せな一日を過ごしました。その日は、朝から、東京の外国系通信社で取材を受けていました。朝、会社の受付に行くと、二人の受け付けの方、二人とも外国人の方でしたが、満面の笑顔で「いらっしゃいませ」、とても幸せな気持ちになりました。五階の、会議室に行くまで、エレベーターホールでも、廊下でも、出会う外国人の人たちは、目が合うたびに、会釈し、微笑んでくれます。とても、幸せな気持ちで、取材を受けることができました。

昼前に、私は、その取材を終えて、駅へと歩いたのですが、その日は、とても寒い日でした。道行く人たちは、その寒さの中で、みんな厳しい顔、目と目が合っても、ただ虚ろに視線を外し、からだがぶつかって、私が、「すみません」と誤っても、何の返事もありません。何か、午前中に、暖まったこころが、どんどん冷えていきました。

みなさんに聞きたいことがあります。みなさんの家は、学校は、会社はどうですか。私が、午前中に訪問した会社のように、笑顔が溢れていますか。優しい丁寧なことばが、満ちていますか。それとも、私が、この日の午後経験した町のように、冷え冷えとした、無機質なものですか。

私は、学生時代から、仏教を勉強しています。仏教には、「無財の七施」ということばがあります。仏教では、自らが幸せになるためには、布施をしよう、だれかのために役立とうという教えがあります。布施、お金を使い、困っている人のために、募金や寄付をする。施設を作ったり、食事を提供する。これが、人を幸せにし、そして、自分も幸せにしてくれるという教えです。

でも、お金が無い人は、布施ができないのか。そうではなく、その人たちにもできる布施、それが、「無財の七施」です。

「和顔施」、だれかと目が合ったら笑顔を返すこと。

「眼施」、いつも、やさしい目で、人と接すること。

「言施」、人に優しいことばを、いつもかけること。

「身施」、ゴミを拾ったり、人が落としたものを、拾ってあげたり、からだを使って人のためになることをすること。

「心施」、人に、思いやりのこころで接すること。

「床座施」、人に席を譲ること。

「房舎施」、人を家に泊めてあげること。

みなさん、どうですか。このうちのいくつかは、今すぐにでもできることではないですか。それが、みなさんの家庭や町、学校や会社を、とても、優しさの溢れる、そして、笑顔に満ちた、幸せなところにしてくれます。やってみませんか。

ことばと文字

みなさん、私は、すでに五十冊の本を書いてきました。数え切れないほどの文字を紙に刻み込んできました。また、四千五百回以上の講演会や数え切れないほどの数の授業で、たくさんのことばを発してきました。

そんな私が、今みなさんを見ていて、気になることがあります。それは、みなさんが、だれかとじかに向かい合って、お互いを見つめながら話すことばと、相手の顔が見えない、手紙やメールなどの文字の違いをきちんと理解していないのではないかということです。また、ことばや文字の恐ろしさをきちんとわかっていないのではないかということです。

ことばは、独り言の場合を除けば、まずはだれかと向かい合って、そのだれかに対して、同じ時、同じ空間の中で発するものです。話し相手が目の前にいるわけですから、よほど感情的になっていない限り、当然その人の表情や体の動きを気にしながら、気を使いながら発します。相手も同じです。そうして互いに思っていることや感じていることを伝え合います。また、相手と確認し合いながら話し合うわけですから、その時発する一つひとつのことばに責任を負います。目の前で苦しんでいる人に「苦しめ」、「ざまあみろ」と言うことのできる人は、まずいないでしょう。ほとんどの人が、「どうしたの」、「だいじょうぷ」と優しく声をかけるでしょう。ことばには、優しさの入る余地があります。

文字は、ことばとはまったく違います。目の前にいない相手に対して、その顔や表情を見ることもできず、一方的に発するものです。だからこそ少し前までは、私たちは文字を大切にしました。手紙にしても、メールにしても、よく知っている人に対してしか、出しませんでした。しかも、文字はずっと残るものですから、何度も見直し、相手を傷つけたり、相手に嫌な思いをさせないように気を使って書きました。今、みなさんはどうですか。多くの人が、メル友を持ち、会ったこともない相手に、自分のことや自分の想いを無造作に書き捨てています。インターネットの掲示板やブログでも、自分の一瞬の感情を無責任に書き込み、それに対してのもっと無責任な書き込みに一喜一憂しています。また、その匿名性を利用して、「死ね」、「殺す」、あるいは「死にます」、「さようなら」こんな人を傷つける、時によっては人の命を奪う文字を安易に書き捨てる人もいます。哀しいことです。

みなさん、お願いです。ことばと文字を大切に使おう。それを聞く、読む人の気持ちを考えて。