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私は二十九年前に神奈川県横浜市の定時制高校に勤務して以来、深夜の繁華街で「夜回り」と呼ばれるパトロールをしています。そこで知り合ったさまざまな問題行動を起こす子どもたち、あるいはすでに問題行動を起こしてしまった子どもたちや、勤務する高校での生徒の問題行動に、生徒指導担当の教員として、一人の教員として、また、一人の大人として対応してきました。
私は、夜の街で少年非行や少年犯罪などさまざまな問題行動を起こす彼ら彼女らのことを、「夜眠らない子どもたち」と呼んでいます。
問題行動とは、万引き・窃盗・強盗から性非行・性犯罪、薬物乱用、はては殺人未遂まで多岐におよびました。これらの問題行動には触法行為、あるいは犯罪という共通点がありました。
彼らの更生には、まず彼ら自身が起こした問題行動が、なぜ問題なのかを理解させ、そして犯した罪は償わせ、新たな生き方をともに生き合いながら探していく、という生徒指導が必要でした。根気のいる指導でしたが、彼らが明日を求めはじめ、昼の世界に戻る姿を見ることは、私のこのうえもない喜びであり、幸せでした。けっして楽な仕事ではありませんでしたが、とても楽しい毎日でした。
しかし、二十年ほど前に、講演先で出会った一人の少女からの相談で、私は新しいタイプの問題行動にぶつかりました。それはリストカットなどの自傷行為やOD(処方薬や市販薬の過剰摂取)、摂食障害や自殺願望、自殺という、こころに問題を抱えた子どもたち、「夜眠れない子どもたち」による行為でした。
いま、私たちの宝物であり夢である子どもたちが、苦しんでいます。そして、明日を見失い、夜の世界へ足を踏み入れたり、一人夜の暗い部屋で死を考えています。
子どもたちの様子を知ることは案外簡単です。まずは、子どもの目を見つめてください。瞳は輝いていますか。力強い視線で見つめ返してくれますか。もし、その子が目を背けるようなら、また、虚ろな目をしていたら、こころに必ず問題を抱えています。もし、その子がにらみつけたり、横目であざ笑うように視線を返してきたら、それは夜の世界に染められはじめています。
いま、多くの子どもたちが自分を見失っています。たぶん日本の子どもたちの三割ほどは、何らかの形でこころを病んでいると思います。
その背景にある原因の一つは、いまの私たちの社会の攻撃性だと思います。本来、私たちの社会は、人と人が認め合う社会でなくてはなりません。それなのに現在の日本は、人と人とが責め合う社会、とても攻撃的な社会になってしまいました。
とくに、一九九一年にバブル経済がはじけて、日本経済が究極の不況に陥ってから、閉塞した厳しい時代になってしまいました。
私は講演で全国を回っていますが、お父さんやお母さんの多い会場ではたびたび質問をします「自分の子どもを褒めた回数と、しかった回数、どちらが多いですか」と。ほとんどの親は、しかった回数のほうが多いと答えます。では、そんなにみなさんの子どもたちは悪いのでしょうか。いいえ、私はそうは思いません。
日本の社会から、哀しいことに美しいことばがどんどん消えてしまっています。たとえば日常では、「ありがとうございます」「お世話になりました」「うれしい」「きれいだな」「素敵だ」「いいんだよ」ということばが聞かれなくなりました。その代わりに、「何やってんだ」「遅い」「急げ」「早く」「がんばれ」「考えろ」などの、きついことばが刃のように飛び交っています。会社では上司が部下に、家庭では部下である夫がその妻に、そして、その妻がその子どもにと、攻撃が下へ下へと力の弱いほうへ続いています。
このように責められ攻撃されても、私たち大人は、家庭であるいは夜の街で、仲間との一杯で気をまぎらわせることができます。そして、また次の日をなんとか過ごしています。
しかし、大人のようにお金やお酒の力を借りることができない子どもたちは、いったいどうしているのでしょうか。どうやって息抜きをしているのでしょうか。だれを攻撃してうっぷんを晴らせばいいのでしょうか。同級生や年下の子どもをいじめることで、動物や生き物を殺すことでうっぷんを晴らせばいいのでしょうか。哀しいことに、すでにそうしている子どもたちもたくさんいます。
会社や仕事先で、「何をのろのろやっているんだ、君なんかいつでもくびにできるんだぞ」といわれた父親は、家に帰って「なんだ、飯もつくってないのか、風呂も沸いてないのか。おまえは何をのろのろやっているんだ」と妻にあたる。夫にあたられてイライラした妻は、自分の子どもたちにうっぷんをぶつけていきます。これは近年親による虐待が増加している一因でもあります。かけがえのない自分の子どもに「テストでこんな点数しかとれないの。何やってるの」としかることで、あたるのです。
大人はずるいのです。父親は、家庭では妻や子どもにあたり散らし、外でお酒を飲んでストレスを解消すればいい。母親も、夫には五〇〇円くらいの安い昼食を食べさせ、自分は主婦仲間と三〇〇〇円のランチを食べて、夫の悪口をいっていればいい。そして、家では自分の子どもにあたりちらしていればいい。
でも、子どもには昼の学校と夜の家庭しかありません。昼の学校でしかられ続け、夜の家庭でもしかられ続けたら……。
私は講演先の会場に子どもたちがいると、子どもたちに必ず聞きます、「家や学校で、褒められた数としかられた数、どっちが多い」。圧倒的にしかられた数のほうが多いのです。
この本を読んでいる大人、とくにお母さん方にお聞きしたい。もし、あなたが夫から毎日「この料理まずいぞ、こんなもの食べられるか。おまえは何をのろのろやっているんだ、こんなこともできないのか。おまえなんかと結婚しなきゃよかった」といわれ続けたらどうしますか。
でもこれは、考えてみたら、お母さん方が自分の子どもに対して日々いっていることではないですか。これを毎日いわれたら、あなたはどうしますか。アルコール依存症になるまで夜の暗いキッチンで毎晩お酒を飲みますか。携帯電話やメールで見知らぬ男と知り合い、その男の甘いことばにすがり、一夜をともに過ごしますか。あるいは、暗い部屋で涙を流しながら死にたいといい、自分で自分の身体を傷つけたり、さまざまな薬を大量に飲みますか。
まさにこれがいま、子どもたちがおかれている状況なのです。子どもたちが学校でも家庭でも追いつめられています。好きで薬物を使う子どもはいません、いまの状況から逃げたいから使うのです。好きで援助交際をする女の子だっていません、愛にすがりたいから援交するのです。好きで自傷したり、死を語ったり、あるいは死んでいく子なんていないのです。
「大人になりたくない」という子どもたちが増えています。でも、私にはこれはあたりまえのような気がします。
父親は夜、家に帰ってきたら、なんといいますか「課長のやつ、部長のやつ、許せない。おまえたちさえいなきゃ、あんな会社辞めてやるのに」。父親の多くは家族につらい顔や苦しい顔しか見せないのです。
母親は母親で、夫が会社へ出かけると、「なんであんな人と結婚したのかしら」などと子どもの前で平気でいっています。
学校に行けば、先生は「疲れた、なんで君たちに教えなきゃいけないんだ」といいます。
街を行く大人たちを見ても、輝いている大人はいますか。大人でいることは、そんなにつらくて、どうしようもない、いやなことなのでしょうか。
大人になって、家族を養い、次の世代を担う子どもたちを育て、国のため、社会のため、人のために尽くして生きることは、ほんとうはすごく輝いていて、楽しいことなのではありませんか。でも、いまの大人たちは、それを子どもたちに見せていない。私はそれを実感しています。
大人になることをやめた子どもたちは、哀れです。明日を夢見ることをあきらめ、明日を生きることを捨ててしまえば、「いま」しかない。「いま」という時間をどう楽しく生きるしか考えてないのです。
じつはこれが、少年非行や少年犯罪の、さまざまな問題の背景にあるのではないかと私は思っています。
いまの一〇代、二〇代の子どもたちを見て思うことがあります。彼ら彼女らは、ものを考えることができない、自分でものごとを決定することができません。まわりを見渡して、つねにみんなと同じような行動をとります。みんなと同じにしていれば、一人だけ浮いたりはみ出すことがないから、仲間からいじめられることはない。自分の身を守るという意識もあるのでしょうが、考える能力が相当に欠如しています。
私は生徒指導という仕事柄、バイク窃盗を集団でやったり、集団で引ったくりをやったり、あるいは集団で薬物を乱用した子どもたちとかかわってきました。その子どもたちに「なんでそんなことをしたの」と聞いたことがあります。答えは「わからない、みんなやっていたから」。
また、夜間徘徊している派手な格好をした女の子たちに、「なんで、その格好をするの」と聞くと、「だって、いま流行っているから」。「きれいだと思うのかい」と問うと「だって、みんなやっているから」と答えます。
ぜひ、まわりの子どもたちに聞いてみてください。自分がこういう行動をするのは、自分がこういう格好をするのは、自分がこういうのは、こんな理由があるからやっている、ときちんと答えられる子はいますか。みなさんの近くに、そこまで考えて行動している子はいますか。
数年前から、私は日本各地のいくつかの大学で授業の手伝いをしています。その授業を通じて感じることがあります。大学生たちがなかなか立派なことをいうので、「どうしてそう思ったんだい」と聞くと、「○○という本で、○○氏がいっていました」。「じゃ、君はどう考えるの」と聞くと、「こんな偉い人がいったのだから、これでいいと思います」。学生たちに論文を書かせるとわかります。じつに考えの受売りが多い。彼らは自分の意見がいえないし、書けないのです。大学生の間でもものを考える能力が非常に低くなってきています。
以前に、日本のなかで最優秀といわれる大学の最優秀といわれる学生たちと、「夜回り」をしたことがあります。「夜回り」といってもごみ拾いをしたり、街の子どもたちに声を掛けたりしたのです。彼らは私の後ろをついてきて、私とまったく同じことをします。はじめての経験で怖いせいもあったかもしれませんが、創造的に自分から声を掛けたり、ごみ拾いも私の歩いた後ではなくて、もう少し隅に行くなどと独創的に動ける学生は、残念ながらまったくいませんでした。
子どもたちに考える力がなくなってしまったのは、私には当然のことに思えます。
日本の子育てとか教育というのは、とくに「六〇年安保闘争」や「大学紛争」、「七〇年安保闘争」のころから、指示型に変わってしまいました。その背景には、ものを考えられる子どもを育てれば、社会に対して闘いを挑む子どもを育てることになる。これはとても危険なことになるかもしれない。それならなんでもいわれたとおりに従う子どもに育てたほうが安全でいい。このように考える大人たちの思惑もあったような気がします。
とくに、いまの子どもたちにはゆっくりと考える時間を与えられていません。一方的に親が「ああしなさい、こうしなさい、こっちにしなさい、それはだめ」とこと細かに指示しながら子どもを育てます。親が自分の思いどおりに子どもを操縦しているさまは、はたから見ていても息苦しくなるほどです。そして、わが子が一七歳、一八歳になると突然、「もう、自分で考えなさい」と突き放してしまいます。でも、このような指示型の子育てでは無理です、子どもに考える力なんてつきません。
たとえば、生まれた赤ちゃんを、二〇年間抱っこして育てたらどうなると思いますか。当然、自分で歩くことができない二〇歳の子をつくってしまいます。いまの日本の子育ては、考えることができない二〇歳の男女、成人をつくってしまっていませんか。
本来、赤ちゃんは生後九ヵ月、一〇ヵ月のころから一生懸命自分で立とうとします。やっと立ったと思ったら、こてっと転んでしまい「ママー」と泣きます。そこで母親は「自分で立つのよ」と願いながらも、でも、こころを鬼にして赤ちゃんからわざと距離をとります。母親が一歩下がろうとすると、赤ちゃんはおいていかれると思い、また、一生懸命立ち上がろうとします。そして立ち上がったところで、母親は「よくやったわねえ」と褒めながら赤ちゃんを抱き締める。これを繰り返すことによって、立って歩くということを学ぶのです。痛い思いやけがをしないで、立って歩けた人間なんていないはずです。
考える能力を育てることも、これと同じです。
子どもたちが一度自分で決めたことは、責任をもってやらせてみるのです。その結果にきちんと後始末をつけられるまで、子どもたちが自分で成し遂げたと満足できるまで、親や大人は手出しをせずに見守っている。これを繰り返していかなければ、ほんとうの意味で、ものを考えられる人間は育たないと私は考えています。
ここまでできなければ、ほんとうの子育てとはいえません。
もし、みなさんが毎日「何やっているんだ、急げ、急げ」とお尻をたたかれ続け、「そんなことじゃだめだろう」としかられ続けたらどうなりますか。
でも、いまの子どもたちは生まれたときから十数年間、とくに小学校高学年から中学校・高校の間は、まさに後ろからお尻をたたかれ、追いつめられています。また、毎日「何やっているんだ、がんばれ」と厳しいことばにさらされています。
たしかに、それでも救われている子どもはいます。
それはある意味で生まれつき能力的にすぐれている子どもたち、あるいは、つらい家庭や学校という状況のなかにあっても、じつはあったかいお母さんがいたり、あったかい先生との出会いや、だれか優しい大人との出会いがあった子どもたちです。
でも、私はこの子どもたちはいまの日本のなかで全体の七割ほどだと思っています。三割ほどの子どもたちが毎日追いつめられ、毎日厳しいことばをあびせられるなかで、自分を見失っています。「私なんかいなくていいんだ」「私がいることが親に迷惑をかける」「学校の授業についていけない、私なんてだめなんだ」と、毎夜、暗い時間になると、とくに自分を責めています。
このように、毎日攻撃されている子どもたちのこころはパンパンになります。じつはここで子どもたちは四つに分かれます。
いちばん元気がよくてしかも多いタイプは、こころがパンパンになったイライラを「ガス抜き」、いわゆる解決するために、自分の仲間をいじめます。まさに大人が、親が先生が、子どもたちにやったのと同じことをかけがいのない自分の仲間に対してやってしまうのです。もっとも哀しい解決法です。
二番目に元気のいい子どもたちは「もういいや、親なんて俺のことをわかってくれない。学校だって、勉強についていけない。先生だって俺のことなんかどうでもいいんだ」と、昼の世界に別れを告げます。そして私の住む夜の世界にやってきます。夜の世界の大人から見たら子どもたちは利用できますし、お金にもなる存在です。夜の世界の大人たちの甘いことばにだまされ、さらに闇の世界へと沈んで行きます。
では、もっともこころ優しい思いやりのあるいい子たち、この子たちが二手に分かれます。そしていま、私たちの前にいろいろな問題を突きつけてきています。
一つはこころを閉ざしてしまう子どもたち。学校へ行ってもいじめがあります。優しくて人をいじめられないから、自分がいじめられてしまいます。また、親に迷惑をかけてしまうからと、優しいがゆえに夜の世界に出て行くこともできません。その結果、学校からは自分を閉ざして不登校になり、友だちとの交流も絶って、家で苦しみ続けます。さらには自分の不登校が原因で苦しんだり、イライラしている親の姿を見て、自分の部屋からも出られなくなる。引きこもりです。
では、それすらもできないもっともこころ弱い子は、「不登校になったら、引きこもりになったら、親に迷惑かける」と考えます。もっともこころ優しく、こころ弱い子は、暗い夜の部屋で「お父さんにしかられたのは、私が悪いから」「勉強についていけないのも、先生からしかられたもの、友だちから嫌われたのも、みんな私が悪いから」と、一人で悩みます。そしてある夜、かみそりを手にして自分を罰しはじめる、リストカットなどの自傷行為のはじまりです。
そして、眠れない、つらいと悩み苦しむ子どもの姿を見て、親やまわりの大人たちが子どもを心療内科や精神科や神経科に連れて行きます。そこで、向精神薬、抗うつ剤、睡眠薬などをもらって、「四錠飲んだらこれだけ楽になった、二〇錠飲んだら、四〇錠飲んだら」と処方薬の過剰摂取がはじまります。
さらにこころを病むと、つらい毎日の連続ですから、食事などがのどを通らなくなって拒食になります。逆にストレスから食べることがとまらなくなる過食、そして、食べては吐くことを繰り返す摂食障害になります。ここまで行けばあと一歩、自殺願望、自殺へと進みます。
いままさに、日本の子どもたちはこのように追い込まれ、苦しんでいます。
追いつめられた子どもたちのなかでも、こころ優しく、こころ弱い子、思いやりのある子は、自分で自分を責めます。先生や親からしかられたり、学校や家での生活がうまくいかなかった原因は、すべて自分にあると決めつけ、すべてを自分で抱え込んでしまいます。そして、その重圧にイライラしてしまい、夜眠ることなどできません。そこで、深夜に一人暗い部屋で、インターネットや携帯電話、メールにといったことばを媒体とした仮想現実の世界に救いを求めます。人と人との現実世界に傷つけられた子どもは、ほんとうの自分を出せないまま、バーチャルリアリティーの世界に救いを求めるのです。
でも、そこに救いなんかないのです。さらに傷つけられてしまうだけです。
私は子どもたちに、「ことばを信じるな。ことばでは、すべては表せない」とよくいいます。
たとえば、夫が妻に「愛している」ということばを連発したら、夫は絶対に悪いことをしているから、妻は夫をひっぱたいたほうがいい。もし、つき合っている男性が一日に何度も「愛しているよ」といったら、彼はうそつきで口が軽い人間だから、そんな男性とは結婚しないほうがいい。ことばなんて、そんなものでしょう。
愛とは、二人の人間がお互いにいたわり合い、優しさをもって、ともに生き合っていく、その生き合いが積み重なってつくられていくものであって、ことばにして表したら無意味なものにしかならないのです。
ところが、子どもたちはそのことばに救いを求めて、ことばを信じます。ことばは必ず人を裏切るし、ことばというのは残酷なものです。
たとえば、ある子が「私は死ぬ」とことばにしたら、まわりの人はその子に死を求めてきます。練炭での集団自殺はその例です。たぶん、集団自殺をはかった人のうちの多くは、ほんとうに死にたいとは考えていなかったはずです。死ぬと文字にしてしまった、メールで書いてしまった、ことばにしていってしまったから、それで責任をとらざるをえなくなったのです。私は、ことばによる死だと思っています。
また、ことばといえば、私はとても残念に思っていることがあります。いまの日本で、大人たちや子どもたちは美しいことばを忘れてしまっています。美しいものというのは、いいものです。触れれば触れるだけ、人のこころを美しくします。
ことばも同じです。美しいことばを使っていると、その人のこころは美しくなっていきますし、乱暴なことばを使っていれば、その人の態度も粗野になっていきます。
学校や家庭で毎日批判され、自己肯定感や自信を失った子どもたちのなかで、まだ生きる力をもっている子どもたちは、彼らを評価せず否定だけする昼の世界に背を向け、夜の街に出て復讐をはじめます。
復讐をはじめた元気のいい子は、夜の街で仲間をつくり、そして非行集団として大人たちに対峙してきます。彼らは一人では大人に勝つことはできません。だから集団をつくるのです。その集団にバイクが入れば、暴走族になります。猛烈な騒音と暴力で、住民に復讐をしていきます。
夜の世界の大人たちは子どもたちには優しいのです、子どもたちをとことん利用できますから。女の子が来れば、「君、かわいいね。どこかへ連れて行ってあげるよ、どこへ行きたい。カラオケへ行くかい」。これで、女の子の身体を狙えます。男の子が来れば、「君、かっこいいな。小遣いやるから遊んできなよ。帰りに事務所に寄りな」と声を掛け、これで使いっぱしりにできます。
こんな大人たちに子どもたちがますます汚されていくのです。
また、昼の世界に背を向けて夜の街に出てきたけれど、大人に対峙するほどの元気のない子どもたちは、暗がりに集い夜を過ごしていきます。そのなかでも、寂しさに埋もれてしまいそうな少女たちは、中高年の男たちの性の対象となり買春されています。そして、その偽りの触れ合いのなかに少女たちはひとときの救いを求め、じつはさらに傷ついていきます。
私は二〇〇四年からの約八年間で、子どもたちから六十七万件以上の相談メールや相談電話をもらいました。関わった子どもたちの数は、二十四万人をこえました。
そのなかにも援助交際をした女子中学生・高校生・大学生、あるいは二〇代の女の子たちからの相談がたくさんありました。彼女たちとかかわっていくうちにわかってきたことがあります。それはじつに父親の存在がひどい、あるいは父親の存在が薄いということです。アルコール依存症の父親が家で暴れて母親に暴力をふるったり、父親が会社人間で家庭をかえりみない、子どもたちがいくらお父さんといっても背中を向けてしまう父親たちに、一因があることは明らかでした。
援助交際をしている女の子の多くは、自分がもつことができなかった優しい父親の姿、それを自分の身体を買う男たちに求めています。なぜそんなことをしたのかと聞くと、彼女たちは必ず「優しかったから」と答えます。哀しいことです。でもそこには当然救いなんてありません。男たちが求めているのは彼女たちの性だけです。そして、彼女たちはこころも身体もさらに深く傷ついてしまうのです。なかには妊娠し、中絶してしまった命のことを思っては苦しみ、自傷したり、死を語る子どもたちもいます。
彼女たちの人生にだれか一人優しい大人がいたら、お父さんの代わりでなくてもいいから、一人の男の大人が彼女たちに寄り添うことができたら。そういう出会いがあったら援助交際はなくなると私は思っています。
現在の日本で、子どもたちに迫っているもっとも困った問題の一つに、薬物があります。覚せい剤、シンナー、大麻、MDMA(エクスタシー)など、薬物というと、大人の多くは、「取締りを強化して、日本に入ってこないようにすればいいのではないか」といわれます。
でも、日本は四方を海に囲まれた島国ですから、実際にそのようなことは不可能です。たとえば、競馬ののみ行為などで借金をしてしまった漁船が、暴力団から脅されて薬物を密輸します。脅された漁船は、公海上で待っている貨物船などから投げ出される覚せい剤や大麻を受け取ります。そして、トロ箱といって水揚げした魚を入れる白い箱の氷の下に薬物を入れて運んできます。これらを全部調べつくして、さらには未然に防ぐことなど、日本では不可能なのです。
ちなみに、最近では日本の薬物市場は二兆円といわれています。北朝鮮、中国、台湾、フィリピン、タイ、シンガポールなどから、大量に日本に薬物が持ち込まれているのが現状です。
いま、日本では第三次覚せい剤乱用期(「日本における薬物乱用の歴史」参照)といわれていますが、これは日本の存亡にかかわる重大な問題です。なぜかというと、日本の薬物乱用史上はじめて一〇代の子どもたちに、組織的かつ集中的に暴力団から薬物が流れはじめたからです。
豊かな物資やあふれるほど大量の情報が飛び交う日本で、寂しさゆえに自分を見失っている子どもはたくさんいます。
二〇〇五年の夏に、私はNHKテレビのある情報番組に出演しました。私の専門は薬物、ドラッグなのですが、私はこの番組で新たな、薬物乱用者観を伝えたかったのです。番組のなかで私は力説しましたが、薬物乱用というと大人たちはすぐに、「使った子どもが悪い」「あいつは悪がきだ」「なんでそんな悪さをする」と子どもたちを責めます。
でも、幸せな子は薬物なんて使いません、必要ないのです。両親の愛に満たされ、立派な大人たちに囲まれ、守られている幸せな子は、夜の世界になんて来ません。温かい部屋で、温かいお父さん、お母さんと楽しくご飯を食べて過ごしています。
しかし、最近の日本では、その幸せというものの概念が変わってしまって、幸せな子どもが、どんどん少なくなってきています。
私たちは日本の戦後の歩みのなかで学んできたはずです。本来幸せとは、物資の豊かさではなかった、富でもなかった、地位でもなかった、名誉でもなかったことを。人のために何かをし、人の笑顔を見ることの喜び。感謝されることの喜び。美しいものを育てたり、つくるなかで、それを見た人が感動することの喜び。そういう幸せを私たちが語っていかなければならない時代が来ていると思います。
その幸せを得られず、自らの行き場を失った子どもたちが、自分の居場所を求めて夜の闇のなかをさまようのです。そして、薬物に出会い、薬物にひとときの救いを求めるのです。
私にはいま、とても心配なことがあります。
私は二十年間、「夜回り」を通じて夜の世界を歩き回り、さまざまな子どもたちと触れ合ってきました。最近、この「夜眠らない子どもたち」が急速に変わりました。彼らの目から、私は「目力」と呼んでいますが、輝きがなくなってきています。かつて夜の世界の子どもたちは、自分たちを捨てた昼の世界のへ怒り、憎しみなどで目がぎらぎらと輝いていました。あるいは、ふてくされている子どもたちでも、斜めでにらみつけてくる「目力」をもっていました。
ご存じのとおり、いまは各地で暴走族が減少しています。これは警察の取締りが厳しいということもありますが、加えて、いまの子どもたちには、以前の子どもたちのように暴れまわるエネルギーや、その気力さえもなくなっているのではないでしょうか。昼の世界の大人たちに復讐しようという、その憎しみすらももてなくなって、虚ろな目をした子どもたちが増えてきています。
でもこのことは、私が数年前からかかわってきたこころを病む子どもたちにも通じていると思います。私の講演、あるいは私のもとに相談に来る子どもたちには、「目力」がまったくありません。虚ろな目が明日を見失い、死へと向かっています。
家庭で、あるいは中学校や高校の教室で、子どもたちの目を見てみてください。瞳は輝いていますか。あしたの夢をもつことができずに明日を捨て、自分の存在すらも見失い、何のために生きているのかわからなくなっている、追いつめられた子どもたちの目が輝くわけがありません。でも、子どもたちをここまで追いつめているのは、いったいだれなのでしょう。
いまの日本で、この「目力」のない、生きる気力を失った子どもたちが増えています。このままでは日本の多くの子どもたちが死んでしまいます。自殺という形で身体を殺す子どもたちも増えていくでしょう。でもそれ以上に、自らのこころを殺してしまって、薬物やただ一夜のなぐさめに救いを求める子どもたちや、あるいはバーチャルという仮想現実の世界のなかで、インターネットのサイトや携帯電話、メールと向き合ってしか生きられない子どもたちが、今後ものすごい勢いで増えていくのではないでしょうか。
私たちの国はどうなるのでしょう。私たちの大切な子どもたちはどうなってしまうのでしょう。
学校や家庭で傷つけられた子どもたちのなかで、もっとも純粋で優しい子どもたちは、自分を責めています。「私なんかいないほうがいい」「もうみんなに迷惑はかけられない」とすべてを自分で抱え込み、その重圧のなかで夜眠れずに、一人暗い部屋のなかで苦しんでいます。
現在、日本中の中学校と高校のほとんどの学校には、この問題に苦しんでいる多くの生徒がいます。親や教員が夜ぐっすりと眠っているときに、インターネットやメールに生きるための救いを求めながら、かみそりやカッターナイフを手にして自分で自分の身体を傷つけることで、あるいは市販薬や処方薬を大量に飲むことによって、死ではなく生き抜こうと苦しんでいる子どもたちがいます。すべては明日を生きるためなのです。
私のもとに届いた相談のほとんどすべてには、昼の世界、家庭や学校で自己の存在を否定されて苦しみ、そのなかで非行や犯罪、あるいはリストカットなどの自傷行為、自殺願望へと追いつめられている子どもたちの叫びが刻まれています。
このときから私の毎日は、これらのメールや電話にひたすら生きて欲しいというメッセージを伝える日々でした。そして、子どもたちからの一つひとつの相談に、あるケースは学校の先生への相談でつなぎ、あるケースは心療内科に、あるケースは精神科に、またあるケースは児童相談所にと、その子の状況を聞きながらもっとも的確と思われる各機関に介入してもらいました。
リストカットなどの自傷行為は、ほとんどのケースで、子どもたちのこころの叫びです。その子どもたちは、自傷したくてしているわけではないのです。パンパンになったこころを、自傷することでやっと「ガス抜き」している。自分で自分を傷つけることによって、かろうじてこころのバランスをとって生きているのです。それまでに受けたこころの傷から死へと向かう誘惑を、なんとか断ち切ろうと生き抜いています。自傷行為は、最初は生きるための行為なのです。リストカットなどの自傷行為は、物質的な繁栄から経済が停滞し閉塞的な状況におかれた人が、こころのなかにさまざまな葛藤をため込んでしまい、さらに、そのこころの叫びを何らかの方法で外に出すことができない場合に、一つの表現として発生します。
しかし、子どもの自傷行為を目にしたとき、親や教員、あるいは友だちのほとんどは、必ずといっていいほど「やめなさい」「なんでそんなことをするの」といいます。また、その行為を責めたり、しかったりします。でも、これらの自傷行為を、無理にやめさせることはとても危険です。自傷行為を否定したり、だめだととめてしまったら、パンパンになったこころの「ガス抜き」ができません。だから、死ぬかしかなくなるのです。「やめなさい」というひとことは、子どもを死に追い込むほどのひどいことばだと私は思います。
問題なのは、自傷している事実ではなくて、なぜ自傷してしまうのかということです。その背景にある原因を探し出すことが重要であって、その原因を解決せずに自傷行為をとめるのは、とても困難なことですし、非常に危険なことなのです。
教育や子育てにおける勝負は「いま」だと、私は思っていません。それが私のいう「いいんだよ」なのです。「いまはいいよ。つらかった過去に思い悩んで、過去に汚されるのもよそう。いまを明日のために使って、一〇年後、二〇年後、三〇年後の君の夢をつくろうよ」これが本来の教育であり、子育てのはずです。だから、教育や子育ては「夢」といわれるのです。
私のもとには子どもたちからのたくさんの相談メールや相談電話が届くのに、ではなぜ、子どもたちが国の行政の相談には行かないのかわかりますか。行政機関の相談は、相談する相手の顔が見えないからです。顔が見えない相手に、どうして、子どもたちは悩みやこころの病を相談できますか。
でも、子どもたちの非行が問題になると、「国は何をやっている。県は、市は、学校はいったい何をやっているんだ」と多くの人たちは、日本の社会に責任を転嫁したがります。そこで私はよくその人たちに聞きます、「じゃあ、あなたは何をやっていますか」と。子どもたちが求めているのは、国でもなく、県でもなく、市でも、学校でもでもありません。先生でも、お母さんでもお父さんでも、近所のおじさんでもおばさんでもいい。一人の大人が、自分のことを心配してそばにいてくれているという事実なのです。
私は人間を信じています。人間は優しさをもった存在です。人から優しさを奪ってしまえば、動物にしかならない。いまの時代は、優しさを出すことははずかしいこととか、かっこうの悪いことと思われる傾向があります。でも、優しさを忘れてはいけません。すべての人がもっている優しさを、すべての人に自然に出せるようになればいいのです。
そこに私は、日本のこの社会の明日があるし、きっとそういう明日がつくれると信じています。
