2020.01.17
阪神淡路大震災
6434名の尊い命が奪われた、阪神淡路大震災から、25年の月日が流れました。まさに、25年前の今日、この大震災がおきました。
私は、あの前日夜、大阪での講演があり、大阪のホテルの33階に宿泊していました。
朝方の激しい地震。ベットから何とか立ち上がり、閉じ込められないように、部屋のドアを開けました。ホテルの廊下は波打っており、何人もの宿泊客が、悲鳴を上げながらうずくまっていました。ものすごい揺れでした。
その後、何とか荷物をまとめ、ホテルを出て、神戸に向かって移動しました。午後には、尼崎まで行きましたが、神戸方面は、火災による一面の煙、傾くビル、高速道路。神戸まで向かうことをあきらめて、何とか横浜に戻りました。
翌日は、勤めていた高校での緊急会議。自分たちに何ができるか話し合いました。何人かの若い教員は、とりあえず現場の確認と支援体制の情報収集のためにテントや
寝袋、多くの食料を持って現地へと向かいました。
私は、学校での情報収集担当でした。当時姉妹校だった神戸の湊川高校定時制の先生方と連絡を取り合いながら、その生徒たちと学校への支援体制を整えました。
私が、神戸に入ったのは、あの震災の日から一ヶ月後でした。神奈川、東京の定時制高校の仲間たちがあつめた衣類や食料、教科書や文房具、寄付金を持って、仲間と車で現地に入りました。
そして、湊川地区での支援に入りました。哀しいそしてつらい思い出です。
そんな中、嬉しいこともありました。当時、私は、この地域のたくさんの不登校やひきこもりの子どもたちから相談を受け、関わっていました。その子どもたちの多くが、避難所での他の人との関わりや、高齢者のお手伝いを通して、社会復帰してくれたことです。半強制的な集団生活の中で、人のために活動し、そこから返ってくる「ありがとう」の一言が、彼らに生きることの素晴らしさと人のために何かすることの大切さを知らせてくれました。
そのあと長野県を中心に発生した、中越地震の時は、まさにこの子どもたちが、自主的に長岡市の避難場所で、被災者支援にあたってくれました。私は、その姿を見て涙したことを憶えています。
あれから25年です。私は、昨年数度神戸を訪れましたが、すでにあの大震災のおもかげはまったくありません。でも、まさに今立ち並ぶビルや美しい町並み、そこで多くの命が失われたのです。私は、その思い出と重ね合わせながら、町を歩き回りました。
今日は、多くの人の命日です。私の数人の友人やその家族もその中に。まずは、黙祷し、今日の仕事をはじめます。
