2021.03.17
ことばは、不完全な道具
今、多くの人が、ことばでものを伝えようとしています。子どもたちに対しても、「こうしなさい」、「それだはだめでしょう」、「何をやっているの」などと、ことばで子育てや教育をしようと、多くの親や先生がたがしています。哀しいことです。
確かに、知識や学問は、ことばを使って教え、学ばせることしかできないかも知れません。でも、人としての生き方は、私は、ことばで教えてはいけないものだと考えております。こう言えば良いかもしれません。あたまは、ことばで作り鍛えることができますが、こころは、ことばでは磨くことはできません。
私は、子どもたちに、いつもこう伝えています。愛は、「愛してる」のことばの中にはないと。二人の人間が、お互いを必要とし、支え合い、助け合い、優しさを配り合い、生き合っていく。そんな二人が振り返ったときに見えてくるものだと。
みなさん、これは、信仰も同じです。百万回の「南無阿弥陀仏」を唱えることの中に、信仰はありますか。私は、ないと考えています。本当の信仰とは、御仏の慈悲のこころをきちんといつも抱き、そのこころを持って日々、回りに慈悲を配り生きること。ここにしか信仰はないと考えています。
人としての生き方も、これと同じです。ことばで伝えるべきものではなく、見せて自ら学ばせるものだと考えています。たとえば、子どもたちを高齢者に優しい人に育てようと思ったら、それをことばで教えるのではなく、まずは私たち大人自身が、日々高齢者をいたわり、そして大切にすることです。
子どもたちを公共心のある人に育てようと思ったら、日々道路の掃除、また、持ちにゴミがあったらそれを拾う姿を子どもたちに見せることです。
子どもたちを、正義を生きる人に育てようと思ったら、私たち自身が、日々正義をきちんと生きている姿を、日々見せることです。いくら、口で正義や公共心を声高に語っても、それを言った親や大人が、高速道路を速度違反で飛ばす姿や、道路にゴミを無造作に投げ捨てる姿を、子どもたちが見たら、どうなるのでしょうか。現在行われている国会の中で問題となっている、総務省幹部や関係国会議員への接待問題、真実を語ることなく、何とかごまかそうとする政治家や企業トップの姿を見た子どもたちは、どう育って行くのでしょうか。
また、大人と子どもでは、ことばについて、身につけている数も違いますし、理解している意味の深さも違います。
大人は、子どもたちに対して発した、すべてのことばの意味を子どもたちが理解していると誤解しています。子どもたちは、それまでの知識と経験のなかでの、年相応の理解しかできません。
悪いことをした子に、いくら機関銃のように怒りのことばをぶつけても、子どもは、その何割かしか理解できません。そしてパニックになったり、ふてくされてしまいます。でも、悪いことをした子どもに、悲しむ顔を見せれば、子どもは、すぐに自分のしたことが何をもたらしたのかを理解します。
私たち人間にとって、ことばは便利な道具ですが、完全なものではありません。ぜひ、子どもたちに対して、ことばで教えるのではなく、生き方を見せることで教えていきませんか。また、政治家や官僚は、ぜひ自らの生き方で、正義を示して欲しいと考えます。
