2020.08.15
太平洋戦争終結から75年たちました
1945年8月15日に、日本が、ポツダム宣言を受託し、連合国に全面降伏しました。太平洋戦争、広くは第2次世界大戦の終結です。あの日から、75年の月日が流れました。
私は、この11年後に生まれましたが、街角で多くの傷痍軍人の方々が、白い服を着て軍帽をかぶり座っている姿を、幼い頃たくさん目にしました。私の祖母は、その方々にご苦労様でしたと語りながら、なにがしかのお金を渡していました。
私の祖父は、明治34年に現在の兵庫県宍粟市山崎に生まれました。尋常高等小学校を卒業後、大阪の船場にあった「藤井忠兵衛商店」に勤め、20代で、赤ダイヤ(小豆)、白ダイヤ(砂糖)の先物取引で、巨額の財をなし、それを資金として、第一次世界大戦後、日本の信託統治領となった南洋諸島に、「南洋貿易 水谷商店」を作りました。サイパン島、ヤップ島、パラオ島、ヤルート島に商店を構え、日本とのカツオ缶詰、石けんの材料となるコプラ栽培で、さらに多くの財を作りました。
私の祖母は、明治39年に、現在の山形県南陽市宮内町漆山に生まれ、秋田の「日本赤十字看護学校」を卒業後、東京中野の陸軍病院に看護師として勤務しました。そこで、担当したのが、後に総理大臣となり、5.15事件で暗殺された、犬養毅議員でした。犬養氏の紹介で、見合いし、仲人をしていただいて結婚したのが祖父でした。
祖父は、日本の多くの若者たちに、「南洋には夢がある」と熱く語り、数千人の若者たちを、南洋諸島に呼びました。
しかし、戦争が始まりました。そして、戦局が悪化する中、サイパン島で最後の避難船群が組織されました。現在横浜港に係留されている「氷川丸」を中心として、数隻の貨物船が用意されました。その中に、私の祖父の当時唯一残っていた「大徳丸」も加わりました。
軍からの命令で、乗船できたのは、婦女子のみです。祖父は、船長として「大徳丸」に乗りましたが、社員の若者たちや私の母の兄は、乗船できません。
日本へと、航行する中、一隻また一隻と潜水艦によって撃沈されていきました。
そして、無事に神戸港につくことができたのは、「氷川丸」一隻、最後まで追走した「大徳丸」は、神戸港沖3㎞で、潜水艦の魚雷で沈没しました。しかし、祖父をはじめ多くの乗船者は、助かることができました。
しかし、サイパン島に残った人たちの多くは、アメリカ軍の上陸作戦の中で、戦死また集団自決していきました。
祖父は、戦後、自らのすべての資産を整理し、連れ帰ることができなかった社員の人たちの家族に配りました。そして、自らは、無一文で山形に籠もり、贖罪の日々を過ごしました。
私は、祖父から一言も南洋や戦争の話を聞いたことがありません。一切語りませんでした。
そんな祖父が亡くなる前に一言語ったことばがあります。
「修、戦争はよくない。絶対によくない。二度としてはいけない。二度と許してはいけない」
祖父の心からの叫びでした。
今、世界が、日本までが、この戦争へと流れていきそうな気配です。絶対にそれだけは、許してはならない。私は、そのために戦います。
