夜回り先生 水谷 修
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Osamu Mizutani Official BLOG

神と戦う

新型コロナウィルスの感染拡大の中で、2月末からすべての講演会が中止になり、自宅にこもる日々を過ごしてきました。そんな中、青春時代に手にした本を何冊も読み直しました。

今回は、その本の一つ、アルベール・カミュの書いた「シーシュポスの神話」について書いてみます。

 

私たちは、暴力的に、この世に生まれさせられます。自分から望んで産まれてくる人はいませんし、親や、環境、時代を選んで生まれでることはできません。そして、必ず来る死に向かって、生まれでたその時から、確実に歩み続けていきます。しかも、私たちが生まれでる前から続いてきた、そして死んだ後も続いていく、太陽がでて一日が始まり、そして沈んで一日が終わる、その単調な繰り返しの中で。

 

はたして、このような宿命を持つ人間に、本当の幸せというものはあるのでしょうか。また、ただ、日々を繰り返しながら死へと向かう人生を、生きる意味や価値があるのでしょうか。私は、中学生の頃から、この問に苦しんでいました。毎晩のように、暗闇の中で震え、寝ることもできず、もだえていました。そして、自らのこころの平安のために、神に救いを求めました。天国、極楽を信じ、自らのその死まで繰り返す一日一日を清く、そして人のために生き、そして来世に永遠の生、そして幸せを求めました。そんな私に、生きることの意味を、死に向かう中での幸せを、そして死に向かう存在としての宿命を受け入れる勇気を与えてくれたのが、この本です。わずか七ページのこの短編です。

 

シーシュポスは、神との約束を破り、罪を犯し、そして永遠の罰を負わされます。大きな岩を、山の頂まで押し上げるという罰を。岩は頂きに至れば、転がり落ちます。彼は、また麓からその岩を押し上げる。まさに人の人生そのものです。彼は、ふてくされることもできます。ぐれることもできます。寝ころんで、休み続けることもできます。でも、彼はしません。ただ、永遠に岩を押し上げる。死という許しを神から与えられるその時まで。

 

私は、この本を読んで、神を憎みました。呪いました。神が全能でありこの世界を創造したのなら、なぜ悪を、そして罪を造ったのか。なぜ人を、優しい完璧な善である存在として造らなかったのか。幼い私は、この本を読んだその時から、こころに決めました。来世があって、そしてそこに神がいたなら、必ずその神を殺そうと。愛する幼い子を戦禍や病に失った親たちの涙と、貧しさや無知から罪を犯し、自らの死を持って償わされた人たちの悲しみを剣として。

 

でも、今の私は、少し成長しました。子どもたち、シーシュポスは、不幸なのでしょうか。私は、そうは思いません。彼が見る朝日、夕日、足もとに咲く名もない花、それが、きっと彼に刹那の、でも限りない、生きていることの喜びを与えてくれています。また、宿命を受け入れながらも、ぐれることなく、ふてくされることなく、日々を生き続けることは、彼の神に対する最後の戦いであり、それは、人としての宿命に対する挑戦です。私は、今、彼のように日々生きています。覚悟を決めて。