夜回り先生 水谷 修
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Osamu Mizutani Official BLOG

ことばのいい加減さと恐ろしさ

私は、今多くの人が、ことばのいい加減さと恐ろしさを、きちんと理解していないと感じています。その原因は、メールや携帯電話、ネットによって、直接相手の顔を見ずに、コミュニケーションを取ることが広がってきたことにあると、私は、考えています。相手と、顔を合わせて直接取るコミュニケーションでは、当然のことながら、相手にきちんと気をつかい、一つひとつのことばを選びながら、相手を傷つけないように配慮していきます。その一方で、直接向き合う必要のない、道具を使ったコミュニケーションでは、どうしても軽く多くのことばを、無責任に、投げ捨ててしまうことが多くなってしまいます。そして、誤解されたり、相手や自分のこころを傷つけてしまいます。みなさんは、そんな経験がありませんか。きっとあると思います。私は、そのことに怖れを感じています。

今、私たちの周りを、日々、刻々、数え切れないほどの数のことばが、行き交っています。テレビでも、ネットでも、携帯電話でも、メールでも、ことばが、氾濫しています。でも、このことばは、実は、いい加減なものです。ことばで、きちんと自分の考えや思いを、表現し伝えることは、実は非常に難しいことです。だからこそ、私たち作家は、一つひとつのことばを選びながら、その行間にまで思いを込めて、一つの文章を書き上げていきます。それでも、完璧に思いを書き切ることは、まずは不可能です。

みなさん、「愛」とは、どんなものでしょうか。「愛してる」と百回言われることが、百回メールをもらうことが「愛」でしょうか。私は、そうは思いません。「愛」は、ことばの中には、ありません。一組の人間が、互いを必要とし、いたわりあい、優しさを配りあい、大切にしあい、生き抜いていくとき、振り返ったら見えてくるものが「愛」です。「愛」は語るものではなく生きるものです。「信仰」も同じだと思います。念仏や題目、神聖なことばを数多く語ることが「信仰」ではありません。その「信仰」の根本に立ち返り、人に優しさを配り、人のために日々精進して生きていくことが、「信仰」の在り方だと私は考えます。確かにことばは、とても私たちにとって、便利な道具です。でも、限界を持った道具に過ぎません。それを忘れてはいけないのです。

その一方で、ことばは、恐ろしい道具でもあります。ことばは、それを語った人、それを書いた人に、責任を取らせます。たとえば、「悲しい」と話す人、書く人には、悲しみをもたらします。「憎い」、「嫌い」など、醜いことばを使えば、その人のこころは、醜く染まっていきます。「死にたい」とメールに書く人、だれかに電話で言う人には、その責任を取って死ぬことを求めてきます。ことばは、それを発した人に、その責任を求めてきます。今、このことに気づいていない人が多すぎます。ことばは、危険な道具なのです。

みなさんにお願いがあります。ことばを捨てた日を、週に一度で良い、作りませんか。家族の中で、ことばを捨て、お互いの思いを行いにして生きる日を、作りませんか。きっとそこから、互いの深い理解が生まれてきます。新しい家族関係が。