2020.03.01
生きぬく
今日は、私の叔父の命日です。叔父について、書きます。
叔父は、科学者でした。かつて企業による公害が、大きな問題となったとき、新潟水俣病の原因をつくった企業の研究所に勤めていました。当然立場上、新潟水俣病とその企業との関係を否定するための研究、実験をしていました。
その当時の叔父は、暗かった。あるとき、私にそっと言ったことばを、私は、覚えています。「修、研究すればするほど、実験すればするほど、うちの会社が原因なんだ。でも、会社は、なんとしてもそうではない証拠を見つけろと言っている。つらいな、勤め人は」
叔父は、会社が、公害の原因企業として社会的に認知されたとき、会社を去りました。そして、小さな化学関係の会社の研究室に勤めました。それからの叔父は、元気そのものでした。「修、今俺は、膜の研究をしている。酸素だけを通す膜。そうだな、魚のえらを思いだせばいい。魚のえらは、水の中から酸素だけを透過している。それを膜でつくりたい。これができたらすごいぞ。酸素ボンベ無しに水中で人が活動できる。空気を簡単に浄化できるし、さまざまに応用できる」いつも、目を輝かせて、自分の研究の話をしてくれました。「修、いいなあ、人のためになるものをつくることは」叔父は、幸せそうでした。
そんな叔父は、ガンの告知を受けました。直腸からすでに肺に転移し、医師からは、すでに手遅れ、余命半年だと、診断されました。でも、叔父は、私に言いました。「修、俺は科学者。どんなときにも、その解決方法を探し求めるのが、科学者の仕事。科学者が、あきらめていたら、この世界のすべての発見や発明は存在しない」
叔父は、ガンに関する、国内だけでなく、海外の論文や文献を読みあさり、自分のガンと闘いました。あらゆる療法や治療を、自分のからだを、実験台として試しました。ガンの治癒はなかったけれども、転移は止まり、医師が驚くほどでした。
叔父は、自慢そうにいっていました。「どうだ、修、求めよ、さらば与えられんだよ。どんなときにも、あきらめたら終わり。必ず、何か道はある。そう信じて生きる。それが大切なんだ」
そんな叔父の容体が悪化したのは、ガンで余命半年の告知を受けてから三年後でした。入院を嫌っていた叔父が、自分から病院を予約し、自ら入院。
驚いた私が、病院に駆けつけると、「修、そろそろ俺の寿命がつきるようだ。でも、修、俺は、ガンに負けてガンで死ぬんじゃない。決められた寿命で死ぬんだ」そういいました。叔父は、痛みに対する緩和医療を、その病院で受けました。そして、亡くなりました。叔父の死に顔は、ほほえんでいました。幸せそうだった。私は、葬儀で、花に包まれた叔父にいいました。「おじさん、ご苦労さまでした」
