2023.04.13
子どもたちへ
今、多くの子どもたちが、寂しさに苦しんでいます。私の元には、数え切れないほど、「寂しい、助けて」というメールが届きます。何か、日本中の子どもたちが、寂しさは、哀しいこと、つらいことだと、決め込み、そして、そこから逃れようと、ネットやメールの仮想現実の中に、落ちていっています。
また、一時の寂しさからの救いを求めて、夜の町で、ただ欲望から近づいてくる男たちに、身をまかす子どもたちすらいます。哀しいことです。
子どもたち、寂しさは、罪ですが。悪ですか。私は、そうは思いません。
私は、寂しい子どもでした。三歳で、ただ一人の家族母と別れ、山形の寒村に預けられました。その村でも、標準語を話すからといじめに。村の広場の大きな木にかけてあったブランコは、よそ者は乗るなと、触ることすら認めてもらえませんでした。でも、夜、みんなが寝静まってから、一人でそのブランコに乗り、母のもとに飛んでいければと、大きくこいでいました。でも、当然母のもとにいけるわけはありません。べそをかきながら、家に戻りました。
でも、私は、その寂しさにつぶされることはありませんでした。遠くの母とつながりたい一心で、字を覚え、四歳からは、拙いひらがなで母に手紙を出していました。でも、嘘ばかり書いていました。「かあさん、ともだち、いっぱいいるよ。たのしいよ。しんぱいしないで」幼い私からの精一杯の母への想いでした。
小学校時代は、ゴムの長靴も買えずわら靴、運動会にはお弁当も持って行けないほど貧しい生活でした。私が、クラスのみんなと平等に勝負できるのは、勉強だけでした。だから、死にものぐるいで勉強しました。勉強だけは、一番になって母を喜ばせようと。私は、寂しさに負けませんでした。寂しいから、努力した。寂しいから、もっと寂しい母のために、生きぬきました。
子どもたち、寂しさは、決して罪でも悪でもありません。人は、寂しいのはあたりまえです。一人生まれ出て、そして一人死んでいくのが、人の宿命ですから。むしろ、寂しさは、人の生きるための力です。寂しいから、人とかかわる。寂しいから、だれかの笑顔のために何かをする。よく、私に聞く人がいます。「先生は、なぜ夜回りをするのですか」と。私は、いつも胸をはって答えます。「寂しいから」と。
子どもたち、寂しさを力に。
追伸
いまだ腰痛は治ることなく、私を苦しめています。
来週からは、また仕事が始まります。
何とか今週中には回復を。
